始まりの日

赦罪 - 12

尾形澄人

 いつもよりも1時間半早く家を出て、六本木防衛庁跡地に建ったビルに向かった。
 そういえばこの上のホテルで相沢とよくヤッたよなぁ、なんて思いながらオフィスタワーに行き、エレベーターに登る。
 8時前に始まる会社なんて六本木にはほとんどない。もちろんセブンスフィアの受付を通っても、誰とも顔を合わせなかった。
「朝から悪いな」
 受付の奥から出てきた敦志がそう言って案内したのは、50人は入りそうな会議室だった。
 いかにも社長らしく落ち着いたダークグレーのスーツを着こなしている。
 本当に社長してるんだなぁ、とか感心しながらその背中を追う。

「坂崎さんの様子はどうだった?」
 敦志には、昨日の夜のうちに綾瀬が死んでいたことだけを伝えていた。詳しいことは話さなかったけど、夜のニュースでそこそこの情報は入っているはずだ。
 敦志は特に表情を変えることもなく、窓の外を眺めた。
「やっぱりって言ってたよ。あの後すぐに北林に呼び出されて、それ以降連絡がない」
「そうなるよなぁ」
 俺たちが綾瀬のマンションに行った経緯を上に報告しないわけにはいかない。特に杉本さんはこういうことを隠すのを極端に嫌うから、敦志の名前を出さないように頼むのが精一杯だったくらいだ。
「今回の件で坂崎さんの身辺調査が入るだろうから、しばらく会わない方がいいね」
「わかってる。でも、さすがに辛いときに傍にいてやれないのは、やりきれないな」
 言いながら、敦志はでかい窓の淵に座るようにもたれて溜め息をついた。
「でも、お互いそう言う立場だってことを理解して付き合ってるんだろ」
 冷たい言い方かもしれないけれど、これが現実だ。
 どんなに愛し合っていても、敦志と坂崎さんの関係が露呈するには影響が大きすぎる。お互い背負っているものの大きさが、半端じゃない。自分たちだけが我慢すればそれで済むわけじゃないのは、2人とも分かっているはずだし、これからもっと辛いことが待っているかもしれない。
「相変わらず辛辣だよな、尾形は」
 敦志は苦笑して言うと、気分を入れ替えるように大きく息を吸う。それから重要な会議でもしているような顔つきになった。
「本当に自殺なのか?」
「まだなんとも言えないね。上は自殺、現場は他殺。こういう場合、だいたい現場の意思は無視されるからね」
 綾瀬の事件は当然トップニュース扱いで、ほぼ自殺と断定して捜査中と報道していた。
「また、か。今回はどこまで嘘なんだよ」
 鹿島の時にも同じような理不尽さを感じたのか、批判的な口調だ。
「残念ながら、全部事実」
「じゃぁ、隠蔽か」
「そういうこと」
 警察発表に嘘はない。ただ、隠している。今回は特に隠しまくっている。遺書の中身、坂崎さんの名前、コインロッカーの鍵。
「鹿島さんの時と同じだな。新証言や証拠が出てきても隠蔽して偽証してって、やりたい放題だった。またあの繰り返しか」
「この前はそんなこと言ってなかっただろ」
 殺されたと思うと坂崎さんが言っただけだった。その問いに、敦志は何か考えるように少し間を空けた。
「…………あいつは諦めてるんだよ。あの時、鹿島さんが亡くなった時も殺人捜査に切り替えるように手を尽くしたんだけど、見えない力ってやつに握り潰されたんだ。誰かが裏から『自殺』で終わらせるよう警察に圧力をかけて、捜査はあっさり打ち切り。自分じゃどうにもならない現実ってのを見せ付けられて、警察にこれ以上何かを求めるのはやめたんだよ」
 敦志の話を聞きながら、坂崎さんと雨宮が重なった。
 目の前で両親を殺されながらひき逃げ事故として処理された雨宮は、今必死になって両親が殺された理由を探している。
 坂崎さんも、鹿島が殺された「理由」を探すために俺に相談した。そしてその「理由」が、綾瀬と繋がっている――というのは考えすぎだろうか?
「坂崎さんが綾瀬と連絡取りたがってた理由って聞いてる?」
「雨宮雅臣が亡くなった時、北林が警察官僚出身だから、綾瀬さんに何か知らないか聞こうとしていたみたいだ。殺されたのかもって言ってたけど、まさか本当に殺されてたとはな。心底警察の良心を疑うね」
 敦志の警察に対してのこの露骨な不満から察するに、坂崎さんの主張はよほどぞんざいに扱われたんだろう。
 俺も、警察上層部の隠蔽体質や利己主義には吐き気がする。
 けれども、少なくとも今、俺はその警察の隠蔽体質の一部になっている。それも雨宮の両親が殺された一連の事件から、公安刑事とヤクザの組長の関係まで数えたらキリがない。それでも、雨宮との未来がここにあるならこれでいいと思っているし、むしろ事件が公になって雨宮がタイムスリップして来ない可能性を考えると、どんなことをしてでも事件を隠蔽するつもりだ。
 そんな俺の思いを敦志は知らないだろうけど、もし敦志が俺の立場だったら同じように考えるに決まってるから。
「まぁね。セブンスフィアの社長が言ってたって上に報告しておくよ」
 あえて冗談で軽くかわしながら、話を戻した。
「坂崎さんは綾瀬とは親しかったのか?」
「ああ。悠真が秘書になった頃から彼にはかなり世話になったみたいなんだ。鹿島が死んで補欠選挙に担ぎ出されたときも、北林に応援演説をするように頼んでくれたりね」
「へえ、議員秘書ってそういう交流があるのか」
「らしいね。勉強会なんかもあるみたいだし、密談用の料亭の情報を交換したりもしてるって言ってたな」
「ははは、やっぱり坂崎さんって見かけと違ってしたた かだよな」
 優しくて誠実そうな外見とは裏腹、交渉や根回しを確実に進めていくタイプだ。冗談混じりに言ったつもりだったけど、敦志はわずかに口角を上げただけで、すぐに視線を落とした。
「さぁ、どうかな。今は、強くなんてなくていいから、幸せになってほしいだけだ」
 幸せね…………。
 親同然だという鹿島が死んで、その傷が癒えないまま犯人を捜す坂崎さんが、敦志の目にはそう映っているのかもしれない。
「俺には、幸せそう見えたけどね」
 そんな言葉は必要なかったのか、敦志は何も言わずに階下の公園を眺めた。

杉本浩介

 綾瀬司朗の行政解剖の結果が出た。
 行政解剖という時点で、事件ではなく自殺だと断定されてたのがわかる。事件性があると判断された場合は、司法解剖だからだ。
 死体検案書によると、綾瀬の血中から高濃度のアルコールと睡眠薬の成分を検出し、死後約40時間~50時間経過していたことがわかった。直接の死因は、手首の傷からの出血によるショック死で、争った形跡もなさそうだ。
 解剖結果と現場の状況だけで考えると、他殺の線は薄くなる。けれど、綾瀬の周囲を見回せば、簡単には自殺と断定できない。何かと黒い噂の耐えない北林との主従関係や一方的な退職、母親への電話、周到に隠されていたコインロッカーの鍵――数え上げたらキリがない。それでもあっさり自殺と断定されたのは、北林が警察上層部に圧力をかけたからなんだろう。
 そして予想通り、刑事部長から呼び出されて帰ってきた足利さんが、忌々しげに顔をゆがめてドサッと俺の隣の椅子に腰を下ろした。
「あの腐れタヌキ、北林の言いなりだ」
「やっぱり、そうでしたか。こっちも坂崎悠真への事情聴取にストップがかかりました」
 俺が担当している田口真奈美の事件に関しても、普通なら兄妹という事実がわかった時点で事情聴取って流れなんだが。
「総裁選が近いから、不利な情報は徹底的に潰しておきたいんだろうなぁ」
 政治家の思惑と、定年後の天下り先を確保したい刑事部長の利害が一致したというわけだ。
「自殺だったとしても、裏づけ捜査くらいは、ちゃんとやりたいですけどね」
 音信不通だった10日間に、彼の心身に何が起き、どうして自殺に至ったのか。なぜ、死という選択をしなければならなかったのか。
「自殺だし所轄が動くだろ。殺人専門課としては、見守るしかないなぁ」
 確かに捜査一課は殺人事件しか扱わない。
 どんな要人や有名人だろうが、自殺と断定された時点で所轄が裏付け捜査をして終わる。
 けれど、どう考えても殺害された可能性は捨てきれない。
 玄関の鍵は開けっ放しで遺書もパソコンだから、密室だった鹿島弘一の時よりも、よっぽど他殺の可能性が高い。
 自殺と断定された後、中国人の殺し屋による殺害が発覚した鹿島弘一と同じように、警察はまた過ちを犯そうとしている。
「納得できませんね」
 多少の怒りを込めて言うと、足利さんがチラリと周囲を見回して、声を低くした。
「でもまぁ、尾形にとっちゃ良かったんじゃないか?」
 もし殺人となると、坂崎悠真も疑われるはずだと言いたいんだろう。
 ただでさえ坂崎悠真の身の回りで、次々と人が死んでいる。去年6月の鹿島弘一に始まって、田口真奈美、雨宮夫妻、綾瀬司朗――1年ちょっとで5人も。
「そうですが……殺人の可能性があるのに見過ごすなんて一課の恥ですよ。コインロッカーも所轄が探すんですよね? 唯一手がかりになりそうなのに」
 何かに怯えてたかと思えるくらい周到に隠されていたロッカーの鍵。例えば、そのロッカーの中身を奪うために殺されたとは考えられないだろうか。
「う~ん、本来ならそうなるんだけどなぁ」
「え、うちで探すんですか?」
「いや、物凄く気になるから、それだけは一課で探そうと思ってたんだけど、なんと二課が出てきた。二課は何度も北林を起訴しようとして、結局いつも証拠不十分とか上からの圧力とかで逃してたんだよ。だから綾瀬が隠した何かってだけで、絶対に『悪事の証拠』に違いないって、息巻いてるわけだな」
 足利さんは一気に説明して小さな溜め息をつくと「わからないでもないけどなぁ」と付け足して、天井を見上げた。捜査二課にいたことのある足利さんには、彼らの苦労や執念が分かるんだろう。
 でも、どうせ足利さんのことだから。
「それでも日比野か誰かに探させてるんじゃないですか? 俺も生安部に頼んでみますよ。鍵を見せればわかるかもしれないんで」
 都内のコインロッカーの情報を持っているのは、生活安全部だ。暴力団が拳銃や麻薬の取引なんかによく使うから、かなりデータを持っている。
 そう説明すると、足利さんは大げさに驚いたように俺を見た。
「おまえ。この前も生安に防犯カメラの解析頼んでたよな。そんな面倒なこと頼めるような知り合いがいるのか?」
「いや、たいした知り合いじゃないんですがね。お互い借りがあるんですよ」
 本当は交番勤務の頃に一緒になったキャリアが今の生活安全部長だからなんだけど、それを言うとアレもコレもと頼まれそうだから適当に濁すと、足利さんは何かを見透かすようにニヤリと笑って。
「借り、ねぇ。ま、そういう繋がりは大事にするに越したことはないな。ヤボは言わねーよ」
 最後はからかうように言って俺の肩を軽く叩くと、頼もしいねぇ、と言いながら自分の席に戻っていった。
 ロッカーの鍵が見つかるのは、おそらく時間の問題だ。坂崎さん周りを調べられないとなると、あとは、綾瀬が田口真奈美を殺したという動機でも探るとするか。

雨宮陽生

 夜7時。約束の時間に銀座の高級マンションのインターホンを押すと、相沢ではない不機嫌そうな声がした。
『どうぞ』
 その言葉と同時に、エントランスの自動ドアが開いた。
 シックな内装のロビーを抜けてエレベーターに乗り、その部屋へ行くと、鋭い目つきの35歳くらいの男がドアをあけた。
「少し遅れると連絡があった。上がって待っててくれだと」
 面倒そうにそう言って、ドアだけ開けにきました、って感じですぐに中に引っ込んだ。
 初対面の人間に向かってその態度はないと思うけど。
 少しイラッとしながら靴を脱いで、近くにあったスリッパを借りる。リビングに入ると、そいつは俺にワイングラスを差し出した。
「付き合え」
 俺、未成年なんだけど。
「あんた何?」
 グラスを受け取らずに睨みつけると、そいつは口元を歪めた。その態度と目つきから厭味なくらいかけ離れた敬語で。
「はじめまして。一ノ瀬デス、雨宮君」
 一ノ瀬? もしかして、一ノ瀬隆英?
「一ノ瀬組の?」
 思わず驚きを隠さずに聞くと、そいつはニヤニヤと胡散臭い笑みを浮かべた。
「そうだ」
 ってことは、つまり俺の両親が殺されることを事前に知っていた男…………。
 相沢とどういう関係か知らないけど、心臓の奥からジワジワと何かがこみ上げてきた。
 人が殺されると知っていながら、止めなかった人間。俺の父さんと母さんが、殺されるのを、何もせずに見過ごした人間だ。
「あんた、雨宮雅臣と祥子の事件、知ってるんだろ?」
 一ノ瀬はスッと無表情になって、それから俺を見下ろすように冷たく見た。この男には尾形や杉本さんみたいな優しさなんて、微塵もない。ヤクザってやつだ。
 一ノ瀬を睨み返すと、彼はふいに口元を緩めた。
「いい眼をしてるな、おまえ」
 誰が。
「俺のモノにならないか? それなりの贅沢と、十分な満足をさせてやれる」
 ――――は? 何言ってるんだ、こいつ。
 やっぱり相沢ともそういう関係なのかよ。
「そういう趣味ないから」
「へぇ。尾形とデキてるって聞いたけど」
 相沢のやつ、んなことまで喋ってんじゃねーよっ!
 っつーか、こいつ尾形とも繋がってんのか? どうなってんだ、日本の警察はっ。
 いや待て、今はそんなこと言ってる場合じゃない。
「事件のこと、知ってるんだろ?」
「知ってるかもしれないね」
 一ノ瀬はそんな答え方をして、もう一度ワイングラスを差し出した。