始まりの日

赦罪 - 11

尾形澄人

 とっさに叫びながら廊下を走って雨宮の横をすり抜け、玄関脇にあるバスルームのドアを開けた。

 悪い予感ってのは、当たるものだ。

「―――――― っ!!」

 浴槽の水が、血の色に染まっていた。
「雨宮は来るな!」
 それだけ言えば、ここに何があるのか分かるはずだ。
 ダラリと動かなくなった男が、ダークスーツのまま座り込み、なみなみに溜まった浴槽の水に手首をつけていた。ネクタイこそしていないが、まるで仕事帰りのような服装。
 そのあせた肌の色から、とっくに死んでいるのだと分かった。
「まいったな……」
 俺の後ろで杉本さんが一言そう呟いて、携帯を耳にあてた。本庁に連絡するんだろう。
「お疲れ様です、杉本ですけど足利さんか課長いますか?」
 杉本さんの電話の声を聞きながら、バスルームにそっと足を踏み入れた。
 水道の水は止まっていて、乾いた赤黒い膜が床の目に沿って模様を作っていた。
 そっと浴槽から腕を上げて傷口を確認する。躊躇い傷らしい浅い傷が3箇所。そして、致命傷になる深い傷が1つ。浴槽の底に、微かにカッターの刃が光って見えた。
 この部屋の気温と遺体の状況から考えて、死後2日ってところか。
 部屋で酒を飲んで、睡眠薬ありったけ飲んで、手首切って自殺――状況から単純に推測すると、そういう流れになりそうだ。
 けれど、自殺しようとする人間が、玄関の鍵を開けっ放しにするのか。そもそも2週間も欠勤してた男がどうしてスーツなんて着ていたのか。連絡がとれなくなってから自殺するまでの12日間に、何があったのか。

「尾形、遺書がある」
 雨宮の声がして、さっき入ろうとしていた部屋に行くと、サイドボードの上のインクジェットプリンターの前に、先に駆け付けた杉本さんと雨宮が立っていた。
「驚いたよ……」
 杉本さんが溜め息混じりに言いながら、そのプリンターの排紙トレイを指差した。
 吐き出されたままのA4の普通紙の一番上に、1行だけ短い文章が書かれていた。
「確かに、驚いたな」

『田口真奈美は私が殺しました。死んで償います。』

 坂崎さんの実の妹。
 捜査一課が、防衛大臣辞任を要求した脅迫状通り見せしめに殺さと睨んでいた、田口真奈美だ。
 否が応でも1つの疑問が浮かんでくる。
「もしかして、坂崎悠真は知ってて綾瀬のことを尾形に話したのか?」
 杉本さんが訝しげに首をかしげた。
「あんまり考えたくないけど、ありえない話じゃないね」
「だよな……2月に脅迫状を送ったのも綾瀬だと思うか?」
「でも北林将岱は元警察官僚だろ。その秘書の綾瀬が、警察を敵に回して防衛大臣を辞任させたがる理由なんてある?」
 雨宮の言うとおりだ。警察官出身の北林にとって、今回の脅迫と田口真奈美の殺人事件は、支持者の集まりである警察を混乱させたあげく、「脅迫状を無視した結果、罪もない一般人が殺された」という失態を生ませたことになる。北林が綾瀬にとってカネヅルだとしたら、北林の地位を奪うようなことはしないはずだ。
「考えられるとしたら、綾瀬が何かの理由で田口真奈美を殺し、たまたま脅迫状の件を知っていたから捜査をかく乱するために利用した、ってところだね」
 俺の推測に、杉本さんは「なるほど」とあっさり納得した。
 北林だったら、国会議員という立場と警察OBのコネを利用して、防衛大臣脅迫事件を知っていてもおかしくない。突発的に田口真奈美を殺してしまった綾瀬が、自分に捜査の手が伸びるのを恐れて、この脅迫事件を利用してカモフラージュさせたとも考えられる。ただ――。
「でも、なんで自殺なんてするんだよ。現時点じゃ綾瀬のあの字も出てなかったんだろ。つまり、自殺するほど追いつめられていたようには思ない」
 俺が言おうとしたことを雨宮に先に言われた。
「そういうこと。田口真奈美の再捜査はまだ始まったばかりだ。半年も前の殺人事件で十分な証拠も挙がってない上に、綾瀬との接点すら見つかってなかった。追い詰められての自殺にはまだ早すぎる」
 杉本さんが顔つきを険しくした。
「つまり、綾瀬は自殺以外の可能性もあるってことか」
「…………そうだね」
 雨宮は呟くように相槌を打って、ぼんやりと遺書を眺めた。
 最期を飾るには、あまりにも素っ気無い一行だった。

雨宮陽生

 ガラスが割れるような雷の音で目が覚めて、頭の横に置いた携帯のディスプレイは深夜3時を回ったところだった。
「帰ってきたかな……」
 綾瀬のマンションで、俺は部外者だからと警察が来る前に無理やり追い出されてしまった。尾形と杉本さんは鑑識に立ち会っていたから俺だけ仕方なく帰ってきたんだけど、一度目が覚めると事件のことが気になって眠れない。雷も煩いし。
 小さく溜め息をついて起き上がり、部屋を出ると、リビングのガラスのドアから照明がついているのが見えた。
「尾形?」
 呼びかけながらドアを開けたけど、そこに尾形の姿はなく、いつも通りダイニングテーブルの上には仕事の書類とか携帯とか置きっぱなしにしてあった。
 なんとなくそれを眺めて、俺が始めてこのマンションに来たときのことを思い出した。まだ3週間しか経っていないのに、もう何ヶ月も前のことみたいだ。
 2021年にいた時は、こんなふうに時間を感じたことがなかった。
 ただ、早く大人になりたかった。
 誰にも干渉されない、誰の助けも必要ない場所に、行きたかった。
 今考えると、そんなのはただ逃げていただけなんだけど。

 シンとした部屋に、雨と雷の音が響いて、急に1人取り残されたような気がした。
 1人でいることを寂しいと感じたことはなかった。けれど、それは1人に慣れていたわけじゃなくて、いつもじいさんや月本が俺のそばにいてくれたからだ。あの2人だけは絶対に俺を裏切らないと、心のどこかで信じていた。
 けれど2人がいない今、俺が絶対だと信じられる存在は、たぶんどこにもいない。
 尾形にだって裏切られるかもしれない。

 パタン、とバスルームのドアが閉まる音がして、その不安が少しだけ軽くなった。
 大丈夫、今だけは1人じゃない。

「おかえり」
 ハーフパンツだけ穿いてタオルで頭を拭きながら入ってきた尾形にそう言うと、ダイニングで待っていた俺を驚いたように見た。それからからかうように笑って。
「待っててくれたんだ?」
「んなわけねーだろ。雷が煩くて目が覚めたんだよ」
「ふーん。寂しいな」
 尾形は棒読みみたいに言いながらキッチンに行き、冷蔵庫からビールを取り出した。
 こういうところが、尾形のわからないところだ。嘘なのか本気なのか、態度からは推測できない。だからって、真意を聞きたいわけじゃないけど。
「何かわかった?」
「いろいろね」
 意味深な返事と同時に、プシュッとビールのプルトップを開けるいい音が響いた。
 尾形はそのまま冷蔵庫の前でビールをゴクゴクとひと飲みして、美味そうに息をついて「やっぱり夏はビールだよな」なんてマイペースにひとりで満足してる。
「いろいろって?」
 イラつきぎみに聞くと、尾形はチラリと視線を向けて意地悪っぽく笑った。
「綾瀬は鬼畜ロリ変態野郎だった」
「ハア?」
 鬼畜ロリ変態って…………。
「クローゼットに、さすがの俺も引くくらいエグいDVDとか雑誌とかSMグッズ、大量に隠し持ってたんだよ」
「そのエグいDVDとか雑誌とか見てて遅くなったのかよ」
 明らかに楽しそうに話す尾形に呆れて言うと、尾形はニヤリと口角を上げた。
「まだまだだな、雨宮。自殺する人間は、得てしてそういうエログッズは事前に処分するもんなんだよ。後で身内や警察が荷物を物色したときに幻滅されるだろ」
 言いながら、俺の正面の椅子を引き出してドカッと座った。
 まぁ、残された人間のことを考えると処分しておいてほしいよな。例えば父さんの遺品からそういうのが出てきたら、絶対に嫌だ。
「でも、これから死ぬのに、そんなもんかな」
「人間なんてそんなもんだよ。自殺を正当化している人間ほど、そういうことにこだわる傾向がある。死んで償うなんて、その典型だろ。そういう人間が犯罪ラインを越えたエロDVDを処分してないってのは、大いに疑問ってこと」
「でも、サイレースを持ってたってことは、精神科か何かに行ってたんだろ?」
 リビングに散乱してたサイレースっていう睡眠薬をネットで調べたら、処方箋がないと手に入らないものだった。
「そ、心療内科。最後の診察は8月25日月曜日、死亡推定日の前日だった」
「だからあんなにたくさん睡眠薬があったんだ…………」
「4月から薬の処方限度が30日に変わったからね。カルテにも30日分処方したって書いてあった。不眠の原因は仕事のストレスと、あとは3月頃から強迫観念が強くなっていたみたいだな」
 3月っていうと、田口真奈美が殺された頃だ。
「強迫観念って、例えば?」
「被害恐怖。自分が殺されるんじゃないかっていう、妄想みたいなのに取り付かれて、異様に怯えるようになる。誰に殺されるのかは患者によって違うし、場合によっては人じゃなくて物だったりする」
 尾形はそう言って、早くも空になったビールのアルミ缶を器用に潰し始めた。
「物?」
「綾瀬の場合は紐だ。例えばネクタイ。突然何かに自分のネクタイが絡まって首を絞められるんじゃないか、電車を降りた時に靴紐がドアに挟まって、動き出した電車に引きずられるんじゃないか、そんな普通は考えないような万が一のことが異常なほど怖くなって、紐を極端に嫌う」
 そういえば玄関に並んでいた革靴に紐靴は一足もなかったっけ。
 それに、紐ってことは。
「田口真奈美って、電気コードで首を絞められて死んだんだよな」
 尾形がニヤリと笑った。
「そういうこと。綾瀬が田口真奈美の死に関連しているのは確かだね。けれど殺したかどうかまでは分からない。繊細な人間なら、他殺死体を見ただけで神経がやられることだって、よくあることだしね」
「ふーん……」
 そう考えると、あの状態の両親を目の当たりにして普通に生活している俺って、かなり鈍いのかもしれない。それとも、記憶がなかっただけで、気付かないうちに免疫ができていたのかな。
 人が殺されることに、慣れたくなんてないのに。
「綾瀬の強迫観念が田口真奈美を殺したことから起因してるとしたら、あながちあの遺書も嘘だとは言えないな」
 堂々巡り、か……。遺書が本物か、エログッズ説が妥当か。
「それと財布に山梨のコンビニとタクシーのレシートが入っていた。日付は8月24日」
「え、山梨って、田口真奈美が14歳まで里親と住んでいた場所だろ? 偶然?」
 自宅の火事で里親夫婦が亡くなって、仕方なく八王子の義母の妹に引き取られたって聞いた。
「さあね。でも、この10日間に綾瀬がどこで何をしていたのかキッチリ調べるって杉本さんが言ってたよ」
「やっぱり。杉本さんらしいな」
 プリンターに残されていた、たった1行の遺書を見つめていた杉本さんの顔を思い出した。
 あのたった1行の遺書にどのくらい信憑性があるんだろう。死ぬほど悔やんでいるんだったら、書いても書きつくせないほどの思いがあると思う。
 綾瀬は何を考えて、あの部屋にいたんだろう。
 杉本さんなら、自殺だったとしてもその人が何を考えてどうして自殺という道を選んだのか、ちゃんと調べるような気がする。
「それと、もう1つ」
 尾形はテーブルに置きっぱなしだった携帯を開いて、ディスプレイを俺に見せた。
「トイレのタンクにコインロッカーの鍵が隠してあった」
 そこには、プラスチックの赤いタグの付いたロッカーの鍵が映っていた。番号は3056。
「うわ、そのロッカーの中身、すっげぇ気になる。何が入ってるんだろ」
 わざわざそんなところに隠してあったってことは、何か重要なものが預けられているとしか思えない。
「これも所轄が片っ端から調べてる。人間の行動範囲なんて意外と限られてるから、よっぽど変な場所じゃない限りすぐ見つかるだろ。とりあえず、今日はここまでだな。鑑識や現場の状況だけじゃ、綾瀬が自殺なのか他殺なのか断定できない」
 そう言って、パタンと携帯を閉じた。
 確かに尾形の言うとおり、玄関の鍵が開いていたことで、自殺とは断定できない。かといって、他殺と言うには状況が自然すぎる。
 そんなことを考えていると、尾形がテーブルに置きっぱなしだったA4の封筒から中身を取り出した。
「あと、杉本さんから田口真奈美がバイトしていたクラブの顧客リストがもらえた」
 受け取った8枚の紙には、ずらりと名前と肩書き、電話番号が並んでいた。
「政治家もずいぶんいるんだ……」
 さすがに高級クラブだけあって、芸能人や著名人、政治家の名前が多い。
「鹿島も北林も、そこにはなかった」
 もちろん坂崎さんの名前もない。
 けれど、昨日聞いたばかりの名前があった。
「……紺野和彦って」
「ああ、セブンスフィアの前社長。タイミングが良すぎるよな」
 いい仕事をしていない、そう言った三並さんの浮かない顔を思い出した。暴力団との繋がりについても、坂崎さんがチラッと話していたし。
 偶然……じゃなかったら?

 次期総理最有力候補の北林将岱の秘書・綾瀬司朗が、俺の両親が殺された翌日から連絡がとれないと、警察じゃなく尾形に相談した坂崎さん。
 その綾瀬司朗は、坂崎さんの実の妹・田口真奈美を殺したと遺書を残して死んでいた。
 綾瀬の部屋に残されていた、コインロッカーの鍵。

 昨日の「殺されるかもしれない」と笑った坂崎さんは、何を思っていたんだろう。
 すべてを知っていて、話をしていたようにさえ思えてくる。

 そんな俺の思考が顔に出てたのか、尾形がクスリと笑った。
「そのうち坂崎さんと北林の事務所にも警察が事情聴取に行くと思うけど、どうせ国会議員相手にサクサク進むわけがない。週末にでも坂崎さんと田口真奈美について調べてみよう」