始まりの日

赦罪 - 10

雨宮陽生

 日比谷図書館は、俺のいた2021年じゃ考えられないくらい古いコンクリートの外壁で、内装も棚も古臭い建物。それにほとんど毎日ってくらい通っているから、職員にも顔を覚えられていて、目が会うと微妙に笑いかけられて困る。
 それでもここに来るのは、情報収集だけじゃなくて、1人で家にいるのが嫌だからだったりもする。
 古い建物も、顔だけ知ってる職員も、嫌いじゃない。居心地がいいわけじゃないけど、ここに来れば、俺の知っている空間があるから。

 照明が少ないわけじゃないのに暗く感じる階段を3階まで上がったところで、携帯のバイブが震えた。この携帯の番号を知ってるのは尾形と杉本さんと相沢くらいで、かかってくるとしたら、尾形くらいだ。案の定というか、確認するまでもなく、ディスプレイには尾形の名前が表示されていた。
 坂崎さんに頼まれていた、綾瀬司朗のことがわかったのかもしれない。
「どうだった?」
『もっと色気のある出方できない?』
 呆れたような言い方。
「はあ? バッカじゃない?」
 なんで俺が色気ふりまいて電話にでなきゃいけないんだよ。
『外?』
「そうだけど、なに?」
『どうせ日比谷図書館だろ。せっかくだから会って話す?』
 ていうか、この時間だったら仕事中だろ。この前だって仕事中のくせに俺呼び出したうえにホテルに連れ込んであんなことして、何考えてるんだよ。公務員以前に人間としてどうかと思うぞ。
「電話でいい。さっさと話せよ」
『おまえってほんとに色気ないよな』
 尾形はどこか楽しそうにそう言うと、そのままの流れで綾瀬の現状と、戸籍謄本を読み上げた。
 綾瀬のことは予想の範疇だったから驚くことはなかったけど、戸籍を読む尾形の声を聞きながら、スッと首が寒くなるような感覚を覚えた。
 田口真奈美の兄ってことは、坂崎さんは6歳の時に母親に自殺されたということだ。自分をおいて死に逃げた母親を、坂崎さんはどう思ったんだろう。
『坂崎さんも田口真奈美と同じ道を歩んだとしたら、養護施設に入ったはずだ。6歳ともなればそう簡単には里親は見つからないから、そのまま義務教育終了か高校まで施設で育った可能性が高いな』
 坂崎さんは鹿島が「大学」の学費を出してくれたと言ってた。つまり鹿島と知り合ったのは、高校を卒業する前後ということになる。
 鹿島のことを話した坂崎さんの顔を思い出した。
「両親のいない坂崎さんにとって、鹿島は本当に父親みたいな存在だったんだ……」
『ああ、そうかもな』
 尾形は曖昧な相槌をうつ。
 それで、確信した。もう警察は坂崎さんに目を付けてる。
 田口真奈美と雨宮夫妻の共通点は坂崎さんだけだし、未だに殺人説が消えない鹿島自殺に関しても、坂崎さんは第一発見者だったんだから、捜査一課としてはマークするのも当然だし、そもそもこんな凄い情報、杉本さんが上に黙ってるわけない。
 でも、違う。
「俺は坂崎さんは違うと思う」
『違う?』
「坂崎さんが実の妹を殺すなんて思えない。鹿島の話をしたときの坂崎さん見てれば、わかるよ」
 理屈じゃない。俺も両親を殺されて感じた苦しみとか哀しみとか、坂崎さんの中にもあるような気がした。
 こんなこと尾形がわかってくれるわけない。そして案の定、
『甘いね、雨宮。快楽殺人者の中には誰もが犯人とは疑わなかった善良市民もいれば、相手を愛するあまりに殺すことを選んだ人間もいる。それに、ある一瞬を境に、殺すということしか生きる糧に出来なくなってしまった人間もね』
 淀みのない尾形の言葉に、息が止まりそうになった。
 …………わかってる。
 それは、俺だったかもしれないから。
 自分を見失うほど、犯人を憎いと――――この手で殺してやりたいと、思った。

『人間、誰だって殺人者になる可能性はあるんだよ』

 わかってる。
 けれども、復讐を考えずにいられるのは、尾形がいてくれたからだろ。
 尾形がいつもそばにいて、俺を引き止めてくれてるからだろ。

 きっと坂崎さんも同じだと思う。

「笑ってたんだよ、坂崎さん」
 電話越しに尾形が戸惑っているのがわかった。
「悲しいとか許せないとか、気の毒だとか、そういう感情のが普通だろ。自分が殺した人間のことを話すとしたら、そういう演技すると思うんだ。坂崎さんみたいな、あんな笑い方しないよ」
『あんな笑い方?』
「笑うしかないっていうか、痛々しいっていうか……」
 坂崎さんの笑顔は人を和ませる笑顔だと思う。実際「癒し系の若手議員」なんて書いてる記事もあるし、会ってみてそういう包容力がある人だと思った。けれどそれ以上に、俺の脳裏には、坂崎さんの消え入りそうな笑顔が鮮明に焼きついている。
 誰かを和ませるものなんかじゃない。
 自分に向けた顔。
「俺さ、親が殺されたこと誰かに話す時、たぶん笑うと思う。笑わなきゃ話せねーよ。深刻な顔したり泣いたりなんてできない。強がりとかじゃなくてさ、そうしなきゃ自分を支えられないんだよ。今置かれてる状況を客観的に見れば見るほど、今ここにいる自分に笑いかけるしかない。俺は1人じゃない、大切な人が隣にいるだろ、ってさ。たぶん、坂崎さんのあの表情も同じだと思うんだよ」
 かけがえのない人を失って、それでも俺は自分を見失っちゃいけない。
 隣にいる大切な人のために。
 だから、笑っていたいと願う。笑っていないと、押しつぶされてしまう。
『…………同じ、ね』
 尾形は俺の話を黙って聞いた後、呟くようにそう言うだけだった。
 納得なんてしてないんだろうな。
 客観的な事実を考えると、今はどうみても坂崎さんが一番犯人に近い。尾形だってそう考えてるはずだし、俺のこの特殊な境遇とか経験から得る確信を、信じてくれるなんて思わない。
 ただ、やっぱり尾形に理解してもらえないのは、少し悲しい。
『ちなみに、雨宮にとってその大切な人って俺?』
 ……いや、前言撤回。結局そこかよ。
「俺に何を言わせたいわけ? 肯定するとでも思ってんの?」
『冷たいな。ま、この強気なところと夜とのギャップがまたいいんだけど』
 出た、極度の鳥肌コメント。
「イタイこと言ってる暇があったら、さっさと綾瀬の行方調べろよ」
『はいはい。今日仕事終わったら杉本さんと一緒に綾瀬のマンションに行くから。築地駅の4番出口に19時な』
「あいかわらず、俺の都合はどうでもいいんだね」
『何か予定が入ってたって、絶対に来るだろ、雨宮は』
「そういう自分本位で強引なやり方してきて、よく今まで無事ですんだよな。背後に気をつけて生活したほうがいんじゃない?」
『でも、そういう強引な俺が好きなんだろ?』
「…………言ってろ」
 ていうか……さっきから歯の浮くようなこと言いまくってるけど、どこで電話してるんだよ。
 そう思って聞いてから、聞かなければ良かったと心の底から後悔した。
『杉本さんと遅めのランチミーティング中。代わる?』
「……いい…………」
 ありえねー……今夜どういう顔して杉本さんに会えばいいんだよ…………。

尾形澄人

 綾瀬のマンションは、築地駅のほど近く、オフィスビルとわずかに残る下町の小さな店とマンションが入り混ざったエリアにあった。
 銀座まで歩いて行けるこの辺りは、当然地価が高い。そのうえ高級マンションときた。
「しかも最上階かよ」
 マンションの入り口のインターホンで呼び出しても応答がないから、出入りする住人の後を追う形でエントランスを抜け、杉本さんが押したエレベーターのボタンを見て、雨宮が乾いた口調で言う。
「政治家の秘書ってのは、そんなにいい給料がもらえるのか?」
 杉本さんが振り返って、疑い深げに俺に聞いた。
「私設秘書は基本的に議員が給与を支払うから、ほとんどの場合は一般的な事務と変わらない程度の額みたいだな。公設秘書なら平均年収700万、それに比べて私設はよくて400万いくかどうかってところだろうね」
 公設秘書は3人まで認められていて国家公務員に区分されている。それ以外の秘書は私設、つまり議員自身が雇うことになり、私設秘書の給料は議員が自由に決めるわけだから、必然的に低賃金で働くことが多い。
「やっぱり公務員は恵まれてるんだなぁ」
「それでもこの前の法改正でずいぶん下がったよ。それに、そもそも私設秘書の給料が安すぎるんだよ。下手したら3倍以上違う場合もある。今年で15年目とはいえ、私設秘書の綾瀬がこのマンションを自分の収入だけで手に入れていたとしたら、北林は綾瀬を相当評価していたか、綾瀬に辞められちゃ困る理由があったか、綾瀬に弱みでも握られてたんだろうね」
 37歳の綾瀬にはそれなりのキャリアがあるだろうが、それ以上に。
「最近調べてわかったんだけど、北林って叩けばホコリが出てくるタイプの政治家だろ。弱み握られてたに決まってる」
 雨宮が唇を少し尖らせて、怒ったような口調で続ける。
「いい人ぶって若者の人気取りみたいなことしてるけど、いろんな新聞とかネットとか横断して読んでいくと、どう考えても利益供与してそうな繋がりばっかりで、損得で政治してるのが見え見えなんだよ」
 さすがだな。雨宮の頭のなかでは、記事の断片が集まって、政治家や組織の相関図が出来上がってるんだろう。父親を囲む人間や組織の利害関係や思惑なんかが、複雑な線で繋がっていて、取引なしではありえない動きを浮き彫りにさせている。
「図書館に入り浸ってるだけあるな」
 ニヤリと笑って褒めてやると、雨宮は何か気持ち悪いものでも見たみたいに、頬を引きつらせた。
「尾形がそういうこと言うと、裏があるとしか思えねー」
 今日はやけに機嫌が悪いな。

「1208、9、ここだ。角部屋か」
 杉本さんは部屋番号を呟きながら一度ドアの前を通り過ぎて、通路の一番端にある非常階段をチェックし、インターホンを押した。
 インターホンの上に、AYASE、とローマ字で彫られたシルバーの表札がかかっている。賃貸でこんな表札を作ることは考えづらい。誰の金で買ったのかは知らないけど、分譲だな。
「いない?」
 雨宮が小さく言って、インターホンをもう一度押した。
 耳を澄ますと、部屋の中からピンポンと軽快なチャイムの音がかすかに聞こえた。けれど、一向に出てくる気配はない。
「やっぱり出ないな。外出中か、居留守か」
 そう言いながらも、杉本さんはドアノブに手をかけた。
 そして、カチャッと音を立てて。
「開いてるぞ……」
 鍵がかかってない。思わず3人で顔を見合わせた。
「綾瀬は独身だったはずだ」
 杉本さんが確かめるように言う。
 事態が事態なだけに、嫌な予感がした。こういうシチュエーションに慣れてる杉本さんや俺はともかく、雨宮にとっては刺激が強すぎることが待ってるかもしれない。
「どうする?」
「入る」
 雨宮は芯の強い瞳を俺に向けて、短く答えた。
 杉本さんにも雨宮の覚悟が伝わったのか、困ったように笑った。
 昼間の電話で、昨日の後遺症はなさそうだとは思ってたけど、いい加減頑張りすぎだ。何かに駆り立てられてるみたいに事件に関わることを調べて、傷付いているはずなのにその傷を癒すことなく、堅くテーピングして試合に出る、みたいな痛々しさを感じる。
 並大抵じゃない覚悟ってのは、長く続けば続くほど、糸が切れたときの反動が怖い。ただ、今の雨宮にそれを言ったところで、雨宮の意思が変わるわけがないけど。
「じゃあ、雨宮はこの部屋のものには触るなよ。ドアにも壁にもな」
「わかってる」
 雨宮の返事を聞くと、杉本さんがゆっくりとドアを引いた。
 流れ出た冷たい空気が、ひんやりと頬をなでた。
 冷蔵庫みたいにエアコンが効いている。けれども、暗い室内に照明は1つもついていない。耳を澄ますと、リビングからテレビの音が聞こえた。
 パッと明かりが点って、杉本さんを見ると、ドアのすぐ脇のスイッチを押したところだった。
 マンションにしては広めの玄関。床には、3足の革靴が壁側にきっちりと揃えられていて、男の1人暮らしにしては、かなりきれいに片付いている。
「こんばんは~。綾瀬さ~ん?」
 杉本さんが右側に伸びた廊下を覗き込むように呼びかける。けれども、数秒待っても返事はなかった。
「綾瀬さ~ん、いませんか? 警察の者です、入りますよ~」
 もう一度杉本さんが呼びかけて、靴を脱いだ。そして廊下にある照明のスイッチを片っ端から点けながら、左右のドアを無視して、まずは奥にあるだろうリビングを目指す。
 居留守ならそれでいい。いや、その方がいい。
 けれどテレビの音はするのに、たった今までそこに人がいた温もりが感じない。寒いくらいに効きすぎたエアコンの冷気のせいもあるだろうけど、もっと本能的な、人間のにおい、とでも言ったらいいのか。
 杉本さんもそれを感じているのか、まるで全身の神経を尖らせるように注意深く足を進める。
「綾瀬さん?」
 やっぱり返事はない。俺の前を歩いてリビングを覗いた杉本さんが振り返って、首を振った。
「いないって」
 後ろにいる雨宮に言うと、雨宮は左手にあったドアに目をやった。間取りから考えて、寝室だろう。
「杉本さん、こっち見て」
 リビングを物色している杉本さんを呼ぶと、白手袋をしながら逆に俺を呼んだ。
「尾形、これ何の薬かわかるか?」
 クスリ?
「今行く。雨宮、入るなよ」
 雨宮に念を押してリビングに行くと、杉本さんが白い手袋をはめながら部屋を見回していた。
 カーテンを閉め切った暗いリビングに、違和感を覚えた。フローリングの床やサイドボード、テレビ台やソファは徹底的に片付いている。それなのに、ガラストップのローテーブルの上だけが、何もかもがやりっぱなしというか、乱れている。
 ビールやチュウハイの空き缶が5本とワインの瓶が1本転がっている。ワイングラスに飲みかけの赤ワイン、袋から散乱してる柿の種。その柿の種の中に、白い錠剤が乱暴に押し出されて散らばっていた。そして、空になった大量のPTP包装には、濃い緑で「Silece」。
「睡眠薬だ……」
 それも、用量を遥かに超えた量の空き容器。

 まさか――――――?!

「杉本さん、バスルームだ!」