始まりの日

赦罪 - 9

尾形澄人

 東京タワーに向かって緩やかに走り出したタクシーの中で、思わず溜め息が出た。
 敦志と坂崎さんは、雨宮の正体を知るとさすがに驚いて聞き返してきた。それでも、この雨宮の態度を見て、嘘をついているとは思わないはずだ。つーか、俺がこんなセンスのない嘘をつくと思われていたら嫌だ。

「なあ、俺ってどんな顔してた?」
 しばらくタクシーが走ると、雨宮がすれ違う車のライトを眺めながら、ポツリと呟くように聞いた。
「例えて言うなら、親を殺した犯人に復讐しようと誓った子供が、ようやく犯人に辿りつきそうになった時の顔」
 雨宮は一瞥するように俺を見て、また窓の外を眺めた。
「……1つも例えてないじゃん」
「ってことは、俺に聞くまでもなく、自分がどういう顔してたのか分かってるんだろ」
 憎悪に支配された冷たい目をしていた、そう言わなかったのは、雨宮自身でわかっていると思ったからだ。
 自分が何を思って、何をしようとしたのか。
 そういう自分に気付いて歯止めが利いているんだったら、俺は雨宮を信じるしかない。
「ま、もしまたあんな顔しそうになったら、俺が引き止めてやるよ」
 軽くそう宣言すると、雨宮は小さく笑った。
「はは、またあんなやり方で? もっと他の方法考えたら半径1メートルを50センチにしてやる」
 それからふと俺との距離を測るように空間を見つめて、厭味っぽく「もう少しそっち行けよ」と付け足す。言い返してやろうかと思ったけれど、今は言わないことにした。
 たぶん、強がりでもあるだろうから。
 そして思ったとおりしばらくしてから、ポツリとこぼすように口を開いた。
「過去を知って向き合って、克服できたと思ってたんだけど…やっぱりそう簡単にはいかないみたい」
 また窓の外を見つめたまま、まるで自嘲するような口調。
 雨宮がこんなふうに弱音を言うなんてことは初めてだ。
 どんなに前を見ていようと、前進していようと、記憶が消えたわけじゃない。4歳だろうが、17歳だろうが、あんな過去をたった数日で乗り越えられたら嘘だ。
 どうして俺は、気付けなかったんだろう。
「ま、飲み込むのに13年かかったんだ。そんなにすぐに消化できるわけない。慌てる必要もないだろ」
 そう言ってやると、雨宮は一瞬だけ驚いたように俺を見て、それから小さく、綺麗に微笑んだ。

 俺には何ができるだろうか。
 この綺麗な笑顔が、憎しみに歪まないように。

「尾形って、防腐剤みたいだよな」

「…………は?」

杉本浩介

 電話を切ったところで、待ってましたとばかりに斜め上から足利さんが話しかけてきた。
「なぁにまたコソコソ調べてるんだ?」
 言って、立ったまま手に持っていたコーヒーを飲む。
 なんでこの人は俺が捜査以外のことをしていると、わかったんだろう。
「別にコソコソしてませんよ。尾形にちょっと頼まれごとしてたんで」
 そう答えると、足利さんは面白い遊びを見つけた子供みたいに目を輝かせながら、俺の隣の椅子を引き寄せて座った。
「へえ、尾形に? 何?」
 足利さんは、尾形のどこからともなく事件を引っ張り込んでくる性質を面白がっているような気がする。
「……坂崎悠真って政治家、知ってますか?」
「坂崎? あぁ、去年自殺した鹿島弘一の後釜か」
「そうです。尾形が知り合いらしくて、坂崎悠真から北林将岱の秘書と連絡がとれないから調べてほしいって頼まれたみたいなんです」
 元々とろんとした垂れ目が、わずかに鋭くなった。次期総裁の最有力候補の秘書となればそれなりの人間だ。足利さんじゃなくても、雨宮総理の事件に関わった刑事なら誰でも、政界まわりでの事件には敏感に反応する癖がついている。
「で?」
「今、事務所に確認してみたら8月14日付で退職していました。それで実家にも連絡したんですが、母親はしばらく海外出張に出ると本人から聞いていたみたいなんです」
 たった今つきとめた矛盾を説明すると、足利さんが飲みかけていたコーヒーを置いた。
 8月14日といえば、雨宮夫妻が亡くなった翌日だ。偶然か、それとも何かしら関係があるのか。
「おいおい……怪しすぎるだろ、それ。いや、ちょっと待て、そもそもなんで坂崎悠真が北林将岱の秘書と連絡とりたがるんだあ?」
「俺も不思議に思ったんですが、尾形が教えてくれないんですよ」
 昨日夜遅くにこの話を尾形から聞いた時、俺もそこについては確認した。けれども尾形は「綾瀬が見つかったら話す」と素っ気なく答えただけだった。たぶん、雨宮がらみなんだろうとは想像がついたけど。
 そして足利さんも同じことを思ったのか。
「ふーん。杉本にも教えてくれないってことは、さては隠し子がらみなんだろうなぁ」
 ニンマリと笑いながらそう言うと、どこか満足そうにコーヒーを啜った。
「隠し子じゃないって言ってるじゃないですか」
 一応訂正してみたけど、「はいはい」と適当に返された。
 まぁ、本当のことを言っても信じないだろうし、かといって無理に訂正しなくてもこれといって害はないから放置してもいいか。
 そんなことを考えていると、足利さんが思い出したように姿勢を正した。
「おまえ国会議員の秘書に知り合いいるか?」
「いませんよ」
「俺、二課にいたことがあるんだけどさぁ、議員が大物になればなるほど、秘書の世界ってのはすげぇぜ」
 警視庁捜査二課は主に知能犯、贈収賄、選挙違反や金融犯罪なんかを担当する。その時に、政治家や秘書と話すことが多かったのかもしれない。
「あれはある意味、信仰宗教だな。センセイのためなら、骨身を削って尽くしちゃうような奴がごろごろしてる。善悪の区別が付かなくなって、自分の手を汚してでもセンセイを立てようとするんだよ」
 同情とも揶揄ともとれる口調で、足利さんは言った。
 胡散臭いというか、たかが国会議員のためにそこまで自分を犠牲にするだろうか。仕事の上で、それほどの関係になれるものだろうか。
「どうもピンときませんね」
「それが普通だろ。まあ、基本的に議員秘書は議員が落選したら失業するからってのもあるだろうけどな。その秘書、なんて名前だっけ?」
綾瀬司朗あやせ しろう 37歳。大学卒業してすぐに北林の私設秘書になったみたいですね」
「ってことは、あのメタボ狸の下で15年か。よくやるよなあ。二課の奴に何かないか聞いてやるよ」
「すみません、忙しいのに」
 頭を下げると、足利さんはニヤッと笑って。
「そのかわり隠し子の件、尾形によろしくって言っておけ」
 尾形は見舞いに来た足利さんに、雨宮についてとんでもないことを話したんじゃなかろうか……いや、ここは知らないほうが身のためかもしれない。
「何がよろしくなのか知りませんが、言うだけ言っておきますよ」
 そんな話をしていると、日比野がA4のクリアファイルを持って歩み寄ってきた。
「杉本さん、田口真奈美の戸籍、届きましたよ」
 あまり期待はしていないが、確認のために照会を頼んでいた。
「おお、悪いな」
 ファイルを受け取って、中身を出そうとしたとき、日比野が思いもよらない名前を口にした。
「坂崎悠真って誰でしたっけ? 聞き覚えのある名前なんですけど、思い出せなくて」
「は?」
 思わず足利さんの顔を見ると、コーヒーを飲みながら俺と目を合わせた。
「若手の政治家だろ。なんでそんなこと聞くんだ?」
 当たり障りのない受け答えをすると、日比野は腑に落ちたように声を上げた。
「あ、政治家か! どうりで聞いたことがあるはずだ」
 けれどもすぐに真顔に戻る。
「でも、そしたらちょっと問題じゃないですか?」
「何が?」

「田口真奈美の兄の名前、坂崎悠真って書いてありますよ」

「――――なんだと!?」
 思わず乱暴に戸籍謄本を引っ張り出して確認した。

 田口真奈美。本籍は山梨県。
 ――従前戸籍 東京都江東区東陽1丁目52番地 坂崎良子。

「坂崎、良子……同じ名字か」
 それから、2枚目の坂崎良子の戸籍。

 ――昭和60年1月30日午後9時 神奈川県平塚市桜ヶ丘2丁目30番地タムラハイツ105号で死亡
    戸籍に記録されているもの
    名 悠真
    生年月日 昭和54年11月27日
    続柄 長男

 昭和54年ということは、今は28歳――。
「日比野、坂崎悠真の生年月日調べろ」
「え、そこに書いてあるじゃないですか」
「違う、政治家の方の生年月日だ。同一人物か裏づけるんだよ」
「わかりました」
 日比野はそう言って、足利さんの前にあるノートパソコンを自分の方に寄せて、立ったまま開いた。
 けれど確認するまでもなく、ほぼ同一人物に間違いない。

 どういうことだ?
 次期総理有力候補の北林将岱の秘書である綾瀬司朗を探して欲しいと言っていた坂崎悠真は、田口真奈美の実の兄で、綾瀬は雨宮夫妻が殺された翌日から音信不通。
 なんだ、この異様な繋がりは……。
「面白くなってきたな」
 隣で戸籍謄本を覗いていた足利さんが、ボソリと呟いた。