始まりの日

赦罪 - 8

雨宮陽生

「焦るなよ。まだ、時間はあるだろ」
 三並さんと坂崎さんがキッチンに消えてからふいに言われて、右側に座る尾形を見ると、いつも通りの皮肉っぽい笑みで俺を見ていた。
「まだ始まったばかりだ。焦る必要なんてない」
「……別に焦ってなんてないし」
 と口では反発したけど、確かに尾形のいうとおり、制御はしたつもりだったけど、気付かないうちに余裕がなくなっていた。
 目の前に突然現れた政治家は、俺の父さんのことを知ってて、あの中国人の殺し屋に殺された大物政治家の秘書だった男。何か手掛かりがあるかもしれないってことばっかり考えてしまう。
「まぁ、とりあえず楽しめば?」
 尾形は自分の家にいるみたいに行儀悪く枝豆をつまみながら言った。
 その余裕さに、ほんの少しだけほっとした。
 楽しむなんて心境になれるかは別として、こっちが焦ったところで、相手も警戒するだけだよな。とは思ったけど、やっぱりその余裕さに少しムカついた。
「だから、焦ってなんてねーよ」
 小さく睨みつけると、尾形はそれでもいつになく優しく笑った。

 和やかな雰囲気で食事を終えて、リビングのソファでゆったりと寛ぐ頃には、尾形も坂崎さんもすっかり打ち解けていた。
 そして、尾形の問いが、ゆるりと話の核心に近づいているのに気付いた。
「それにしても、まさか敦志の相手が政治家だとは思わなかったな」
 俺の隣に偉そうに深く腰かけて、いつもの性格の悪そうな笑みを浮かべた。
 坂崎さんはそんな尾形の態度を気にするでもなく、ローテーブルにグラスを置いて、尾形のグラスにワインを注いだ。
「僕も尾形さんの噂はよく聞いてたんで、想像と違って驚いたよ」
  一緒に食事をしてみて、坂崎さんがさりげなく気の利く人だとわかった。客のためにと意識しているんじゃなくて、たぶんこの人の才能っていうか、自然と身に付いている癖みたいなものだと思う。
「噂ってなんだよ。っていうか、そもそもどういう想像してたわけ?」
「もっと遊んでそうな人かと……」
 言いかけて、チラリと俺を見る。けれども尾形は気にせずに笑って。
「ああ、5股してたとか、たまたまひっかけた男がドラッグの売人で、打たれそうになったとか聞いてる?」
 5股に、ひっかけたかよ……。
 尾形は遊びでセックスする人間、なんだよな。相沢ともそうだったみたいに。
 あ、つまりこの三並さんともそういう関係だったっていうことも……ありえる。ありえすぎて、なんかげんなりする。
 変な想像して微妙にテンションが下がった俺とは対照的に、坂崎悠真は俺と同じような立場に関わらず冗談っぽく三並さんを睨んだ。
「どうせ敦志が教えたんでしょ」
「そういえば、俺が尾形に会ったのが24の時で、尾形が17か。ちょうどおまえたちと同じくらいの年だったのか」
 三並さんが思い出すように言いながら、にんまりと笑って俺を見た。
「こいつ、ほんっとに手が付けられないくらい生意気でさ。世界は自分を中心に回ってると本気で思ってるバカだったんだよ」
 確かに、生意気にした17歳の尾形を想像すると、物凄い嫌な奴ができあがるかも。
「それ敦志にそっくりそのまま返したいくらいだね」
「おまえな、自分が中心だって思うのは勝手けど、相手にも中心は自分だって思わせておくのが、ココがいい人間なんだよ」
 三並さんはこめかみをつつきながら言う。
「それかなり性格悪いだろ」
「まさか。これも立派なコミュニケーション術っていうんだよ。誰も傷つかない、誰も悲しまない。おまえはもう少しそういうやり方を知ったほうがいい」
 三並さんは、計算高くて相手を乗せるのがうまい。でも悪い人ってわけじゃないと思う。堂々としていて根は正直で、たぶん敵を味方に変えていくタイプなんだろうな。
 こういうタイプの社長は、じいさんの知り合いにもいなかったから、少しだけ興味が湧いた。
「三並さんって、どうしてセブンスフィアの社長になったんですか?」
 俺の唐突な質問に、三並さんは一瞬驚いたような顔をして、けれどもさらりと答えた。
「アメリカでMBAを取得した後、もともと知り合いだったセブンスフィアの前の社長にスカウトされたんだ。それで4年間社長の下で仕事して、いつの間にか跡継ぎになってたんだよ。最初はそんなつもりじゃなかったんだけどね。俺は元々自分で起業したかったし。けれど、セブンスフィアの仕事は面白いんだ。インターネットだけじゃなくてリアル媒体にもどんどん進出していて、東京の流行を作っていける。前の社長はそういうの下手だったからほとんど俺が仕切ってたんだけど、それが認められて、最高経営責任者CEOになれたってわけ」
 下手したら自慢話になるのに、そう聞こえないように話すすべを知っているのかもしれない。「相手にも中心は自分だって思わせておく」ための、話術かな。
「でも、たった4年ですよね。凄いな」
「ああ、前の社長が後押ししてくれたんだよ。いろいろとあくどいことしたって噂もあるけど、結局は自分の会社が好きなんだろうね。創業者だし。外部から誰かを呼んでくるより、4年間忠実に下で働いていた俺を後釜にすることを選んだだけだろ」
 さっきとは違う他人事みたいな言い方に、違和感を覚えた。尾形もそうだったのか、微かに眉をひそめて、ワイングラスを持つ手を止めた。
「おまえらしくない言い方だな」
「まあね。俺を評価してくれる人を悪くは言いたくないけど、あんまりいい仕事してないんだよ、あの人」
 三並さんは、顔をしかめてそれだけ答えた。
 その顔から、前社長のことをよく思っていないということはわかった。自分を引き抜いてくれて、しかも社長にしてくれた人をそこまで言うってことは、何かよほどの理由がありそうな気がする。
「7~8年前くらいかな――――」
 ふいに、坂崎さんが口を開いた。
「セブンスフィアの前社長の周りで、暴力団との癒着みたいな噂があったのは覚えているけど、それ今でもあったりする?」
 暴力団?
 坂崎さんの口から突然出てきた単語に俺も尾形も顔を上げた。
「俺が知ってる限りじゃ、今はないな。それにしても悠真、よくそんなこと覚えてるな」
「ほら、ITバブルがはじけた頃で、僕も少しIT株に投資してたからよく覚えてるよ」
 ITバブルか――前に本で読んだことがある。2000年にインターネット関連の株が急落してバブルがはじけた。そのおかげで多くの企業が倒産したけど、セブンスフィアはその中で生き残った企業だったんだ。
「へぇ、悠真が株なんて意外だな」
 どうして意外なのかわからないけど、腑に落ちないような三並さんに対して、坂崎さんは少しだけ寂しげに笑った。
「そうだね。僕はそんなに興味なかったんだけど、経済を知るには金をかけろって、鹿島に言われたんだ」
 鹿島? 鹿島弘一?
 思わず身を乗りだしそうになるのを押させた。
 落ち着け、今焦って警戒させたら、警戒されて終わりだ。
 そう言い聞かせているうちに、俺が言おうとした言葉を、尾形が先に口にした。
「鹿島って――鹿島弘一のこと?」
 坂崎さんは三並さんのグラスに赤ワインを注ぎながら困ったように笑った。
「そう。知ってるかもしれないけど、僕は自殺した鹿島弘一の政策秘書をしていたんだ。僕はもともと政治家になるつもりはなかったんだけど、鹿島には子供がいなかったから、鹿島の後を継ぐ形で秘書だった僕が引っ張り出されてしまって。地盤も後援会もそのまま引き継ぐ形だったし、結果的に当選しちゃったって感じだよ」
 でも鹿島は自殺じゃなくて、俺の両親を殺した中国人の殺し屋に、殺された――誰かに依頼されて。
 その辺のことを聞いたりしたら、さすがに警戒されるだろうな。その前に、殺されたなんて話、したいわけがないだろうし……と思ったその時。
「で、鹿島弘一って本当に自殺?」
 は? 今それを聞くか?
「おい、何聞いてんだよっ」
「現場は自殺そのものだったけど、遺書は見つかってないんだってな」
 それって殺されたって言ってるようなもんだろっ。
 けれども坂崎さんは嫌な顔というよりも、怪訝そうに三並さんを見た。そして今まで静観していた三並さんが、坂崎さんの代弁をするように口を開いた。
「実は、そのことを相談したくておまえを呼んだんだよ」
 え?
 尾形も、俺と同じように驚いたように三並さんを見た。
「そのこと?」
 聞き返した尾形に、坂崎さんが真剣な目を向けて、静かに言った。
「ええ。僕は、他殺の可能性もあると思ってる」
「―――!」
 まさに、急展開だ。
 こんなにタイミングで鹿島の自殺のことを聞けるなんて。
「へえ、自殺が納得できない理由があるってこと?」
 平静を保つのがやっとの俺とは正反対に、尾形が冷静に聞き返すと、坂崎さんは静かに話し始めた。
「最初に見つけたのは僕だったんだ。翌日の委員会の打ち合わせをする予定で議員宿舎に行ったら、もう亡くなって冷たくなってた」
 その時の様子を思い出したのか、奥歯を噛み締めるような苦い顔をする。隣から三並さんが気遣うように坂崎さんの腰に手を回した。そうやって気遣う様子は、坂崎さんの痛みがどれほどのものなのかを物語っていて、ひどく切なくて、こっちまで痛くなりそうな気がした。
「鍵は?」
「閉まっていた。でも鹿島が宿舎に資料を忘れたりするから、僕も普段から鍵を預かってて、あの日もインターホンをいくら鳴らしても出ないから留守だと思って部屋に上がったんだ。そしたら……」
 麻布でのことを思い出した。
 階段の踊り場で目を開いたまま動かなくなった母さんを、俺は直視できなかった。父さんが尾形に心臓マッサージをされながら、ぐったりと血を流し続けているこの状況を、認めたくなかった。
 人が目の前で死んでいる――その状況に冷静でいられるわけない……。
 けれども、尾形にはそんなことはどうでもいいのか、それともあえて感傷的にならないようにしたのか。
「で、どうして他殺だと?」
 尾形の事務的な厳しい質問に、坂崎さんは気を取り直すように一度ゆっくり瞬きをして、的確に答えた。
「さっきどうして自殺したのか聞いたよね。でも、僕には見当もつかない。警察やマスコミは色々と動機を作ってるけど、僕から見たら鹿島が自殺するほど悩んでたり苦しんでるようなことって何もなかった」
 尾形がニヤリと笑った。
「殺される理由には心当たりがある、そう言ってるって気付いてる?」
 殺されるほどの理由なんて言ったら、政治家にとって致命傷になるに決まってる。それなのに、坂崎さんはまるで冗談を聞くみたいに笑った。
「だから、僕もそのうち殺されるかもしれないね」
 笑って言う言葉じゃ、ねーだろ……。
「政治家と秘書ってのは、そこまでの関係なのか」
「どうかな。僕の場合、鹿島は父親のような存在だったから。大学の学費を出してくれたのも、秘書をしてみないかと誘ってくれたのも鹿島なんだ。僕は鹿島を信頼していたし、子供がいなかった鹿島も僕を実の子のように可愛がってくれた。そんなこともあって、僕は彼のためなら、どんなことでもしようと誓ったんだ」
 言って、自嘲するように口角を上げた。
 たぶん「どんなことでも」の中には法を犯すようなことも含んでる。この10日間いろいろ調べて、政治家って職業がどれほど金が必要で、企業や自治会との駆け引きが重要なのか知った。その全てを坂崎さんは見ていたのかもしれない。
「パトロン?」
 尾形はまた無神経に聞く。ここまで身も蓋もないと、逆に清々しいような気もするけど、隣で不安そうに坂崎さんを見ていた三並さんの頬が一瞬こわばっていた。もしかしたら、三並さんも坂崎さんと鹿島の関係を知らないのかもしれない。
 そんな周囲をよそに、坂崎さんは「まさか」と短く、呟くように言って首を横に振った。
 それから、今にも消えそうな笑みを浮かべて。
「本当に、親子だったらよかった。それだけだよ」
 笑うしかない、そんな感じの、心もとない笑み。
 それが何を意味しているのかはわからない。でも、坂崎さんにとって、鹿島弘一はかけがえのない存在だったのかもしれない。
「で、殺される理由は?」
「いくら敦志の親友でも、それは話せないよ。僕の政治家生命にも関わるしね」
 そう言うけど、坂崎さんにとって自分の政治家生命なんてどうでもいいような気がする。もともと政治家になるつもりはなかったわけだし、もしそんなこと考えていたら、鹿島が他殺かもしれないなんて、警察関係者に話すわけないから。
 尾形もそう思ったのか、「ふーん」と気のない返事をした。けれど、それ以上は何も聞かなかったのは、尾形なりの優しさなのかもしれない。
「ちなみに、このこと誰かに話した?」
「ああ……先日亡くなった、雨宮さんに」

 え―――父さんに……?

 あまりにも突然、なんの防御壁も張ってなかった俺の心に、その名前が飛び込んできた。
 視線こそ俺に向かなかったけど、尾形が俺の背中に腕を回した。気を遣ってくれてるんだって、わかってる。
 わかってるけど、辛い――……。
「そう言えばあのひき逃げも、まだ犯人捕まってないよな。あれもワケありの他殺だったりして」
 無神経な冗談じゃない、坂崎さんの言葉を引き出すために言ってるんだってわかっても、ずっしりとみぞおちが重たくなった。
 けれども坂崎さんの話は、さらに追い討ちをかけた。
「それと関係あるかどうかわからないけど、その雨宮さんと奥さんが亡くなった翌日から、北林の秘書の1人と連絡がとれないんだ」
 北林? それって、北林将岱――?

 ――北林将岱という政治家を、知ってるか?

 相沢からその名前を聞いて、この10日間、徹底的に調べた。
 次期総理に最も近い男。それなのに総理にならなかった、俺が知らない政治家。

 頭の中で、途切れ途切れの線が1本に繋がった。

「それ、どういうことですか? 北林の秘書って誰?」
 思わず声がうわずった。
「おい雨宮、落ち着け」
「でも絶対おかしいだろっ。その人、何か知ってるかもしれない!」
 腰を浮かせて坂崎さんに詰め寄ると、尾形が俺の腕を強く引っ張った。けど、そんなことどうでもよかった。
 ものすごい手がかりが、目の前にある。
「とにかく落ち着けよ」
 冷静な尾形の顔に苛ついた。
「落ち着けるわけねーだろ! 父さんが殺された直後に北林の秘書と連絡がとれないんだろ!?」
 繋がっている。
 父さんと母さんを殺させた奴に、手が届く――――!

 ぬるり、と心臓の下にどす黒い何かが湧き出たような気がした。

 絶対に、見つけ出してやる。
 必ず追い詰めて――――。

「痛っ!」
 突然、両肩に鋭い痛みが走った。尾形に両肩を強く掴まれて、直後に視界が遮られたかと思ったら。
「―――っ!!!」
 キス、されていた。
 あまりの唐突さに、脳が固まった。

 ゆっくりと尾形の顔が離れて、それでも至近距離を保ったまま、冷静な目で俺を見た。
「そんな顔するな」

 え?
 俺、今……何、考えた……?
 どんな顔、してた――――?

 ……って、待てよ。

「―――― ってめー! 人前で何してんだよっ!!」
 怒鳴りながら尾形の腕を振り払って、尾形から逃げるようにソファの端に後ずさった。こんな近くにいたら、何されるかわからない。
「周りが見えなくなってたおまえが悪いんだろ」
 怒鳴る俺とは裏腹、尾形はケロリとしている。それが余計に俺の怒りをあおる。
「だからって、やり方ってもんがあるだろ!」
「なんだ、もっと濃厚な方が良かったのか」
「っざけんな! 俺に触るな、半径1メートル以内に近づくな!」
「はいはい。そんなにでっかい声出さなくても聞こえるよ。また口ふさがれたい?」
「こんなにでっかい声出したって人の話聞いてないだろーがっ」
 左脚の傷口おもいっきり蹴ってやろうか。

 睨みつけながらも、頭の片隅でさっきの自分を思い返した。
 やり方は許せないけど、尾形が俺を引き止めてくれてよかったのかもしれない。

 許したわけじゃない――でも、今さら恨みとか憎しみとか、そんなのないと思っていたのに。
 自分でも気付かないうちに、俺はこんなにも犯人を憎んでいたんだ……殺したいほどに。

 そして、タイミングを見計らったように、坂崎さんがそれを聞いてきた。単刀直入に。

「それで、陽生君。雨宮さんとはどういう関係?」