始まりの日

赦罪 - 7

杉本浩介

 午後6時、警視庁から程近いコーヒーショップで、久しぶりに尾形と雨宮の3人で顔を合わせた。
 これから尾形の友達だという三並敦志の家に行くらしい。
「あいかわらず、尾形の交友関係は読めないな」
 相沢といい、この三並敦志といい、いったいどこで知り合うんだろう。
 けれども、そんなことは尾形にはどうでもいいことだったようで、気持ちいいくらいあっさり無視された。
「で、田口真奈美の方は?」
 俺を無視した尾形の問いに便乗するように、雨宮がアイスのカフェラテを飲みながら、大人びた目でチラリと俺を見た。
「ああ、今ナイフの出どころをあらってるところだ。それにしても彼女、絵に描いたような不幸な女だったよ」
「ま、ヤクザの愛人だしな」
 尾形は素っ気無く言ったが、そんなに甘いもんでもなかった。
「いいや、生まれた時からだ」

 田口真奈美、1984年2月9日生まれ24歳、本籍は山梨県。
 2歳の頃に未婚の母親が自殺し、3歳まで神奈川県の児童養護施設にいた。子供に恵まれなかった当時56歳の田口夫妻の養子になって、14歳の時に火事で養父母を同時に亡くしている。旧式の石油ストーブが倒れて家具に引火したらしい。養父母は逃げ遅れて一酸化炭素中毒で窒息死。そして家も失って、八王子の養母方の叔母に引き取られた。
 その後、高校を卒業して養父母の遺産でなんとか大学に入り、赤坂の建設会社に就職。ただOLの安月給じゃ生活が大変だったんだろう、一昨年の11月から銀座の『ドルチェ』という高級クラブで週2回バイトをしていた。そして、その店で一ノ瀬の右腕だった黒田に出会い不倫関係になり、それからは黒田に買ってもらったマンションで暮らしてた。
 性格はいたって普通。勤務先でも真面目で仕事熱心だと評判がよかったが、同僚とのプライベートでの付き合いはほとんどなかったようだ。

 ざっと説明すると、尾形も雨宮も、さすがに顔を曇らせた。
 普通の友達、普通の生活、そういうものに縁のない人間、望んでも手に入れられない人間が、確かにいる。
「殺人ってのは、こういう人間の周りでよく起こるんだよ」
 脅迫状どおりのただの見せしめ殺人じゃない、もっとどす黒い何かが裏に張り付いているような、嫌な感触を覚える。
 足利さんがこの事件を「おかしい」と言ったのが、わかるような気がした。もしかしたら、もっと真奈美に近い人間による犯行かもしれない。
 尾形は小さく「なるほどね」と呟いて、気分を入れ替えるように息をついた。
「で、その『ドルチェ』関係には真奈美を深く付き合ってた同僚とか客とかいなかった?」
「ああ、店の子や顧客リストを片っ端からあたってるが、今のところ見つかっていない。高校の時に真奈美を引き取った叔母にも会いに行ったが、同居したのはほんの2週間。養父母を一気になくして塞ぎこんでる真奈美を持て余して、全寮制の学校に送り込んだということだ。真奈美も養子っていう肩身の狭い身分で気を使って暮らすよりも、同年代の奴と一緒に寮で生活したほうが楽だったのかもしれないけどな」
 不幸なことが続いて、真奈美の神経も磨り減っていたのかもしれない。たった14年間で2回も親を亡くして、家も失い、友達とも別れなければならなかった。自分の運命を恨んだだろう。
 そして、愛した人間はヤクザだった。
「もしかしたら唯一、黒田だけが真奈美に近い存在だったのかもしれないな。それでも黒田にも昔のことは一言も話してなかったようだし」
 取り調べで黒田に真奈美のことを聞いても、大した情報は得られなかった。
「それと、連絡をとっていた形跡はないけど、4歳年上の兄がいるらしいから探してる」
「らしい?」
「叔母がそう言ってたんだが、どうも要領を得なくてね。実母の戸籍を照会しているから明日にはわかると思うが、期待はできないな」
 真奈美が養子に入る前の戸籍を辿れば、兄の名前がわかるはずだ。ただ、真奈美が3歳の頃に生き別れた兄と連絡をとっていたとは考えづらい。
 とにかく田口真奈美に関しては、半年前の初動捜査のミスも響いて、手がかりが得難い。防犯ビデオは1ヶ月も保存してれば長いほうだから、半年前のものなどあるはずもない。人間の記憶ともなれば、もっと曖昧だ。つまり、ナイフの購入者を片っ端から聞き込みをしたところで、成果を期待できないのは事実だ。結局、田口真奈美殺害については、新しい証拠を挙げるのは無理かもしれない。
 悔しさがこみ上げた。
「杉本さん、『ドルチェ』の顧客リストって見せてくれませんか?」
 ふいに、今まで聞き役に徹していた雨宮が、真剣な目でそう聞いてきた。
「ん? あぁ、明日でよければコピーを持ってくるが……これと言って目ぼしい人間はいなかったぞ?」
「でも、田口真奈美は黒田と愛人関係になってもバイトは続けてたんですよね? お金に困らなくなったのに、どうして続けてたんだろう。他に理由があったような気がする」
 鋭いぞ、雨宮……ただの高校生じゃないとは思っていたが、尾形が自分より頭がいいと言うだけあるな。
「まぁ、それは俺も考えたんだが……わかった。明日、尾形に渡すよ」
 そう答えると、雨宮は小さく頷いて、丁寧に礼を言った。
「うん。お願いします」
 同じ天才でも、こうも違うとはな。尾形にもこんな時代があった……とは思えないが。
「尾形と違って素直でいいな」
 なんとなしに思っていたことを隣で言われて、ギクリとした。
「って思ったでしょ、杉本さん」
 振り向くと尾形がニヤリと厭味な笑みを浮かべて俺を見ていた。
「おまえのそう言うところが素直じゃないんだよ。雨宮、こんな奴の家にいつまでもいるなよ。なんだったら俺がアパート探してやるぞ」
「残念だな、雨宮はもう俺から離れたくないって」
 尾形が真顔で言うと、雨宮が身を乗り出して大げさなくらいきっぱりと。
「言ってない、一言も言ってないだろ!」
「言っただろ、すごく大事で失いたくないって――」
「わわわわっ! そんなこと人に言うなよ!」
「本当のことだろ。杉本さんに隠してどうするんだよ」
「だいたいそういう意味で言ったわけじゃないしっ」
 そんなに必死に否定されると、それが友達としての言葉だったとしても逆に怪しいぞ、雨宮……。
「他にどういう意味があるわけ? 雨宮は俺のことが好きなんだから、今さら悪あがきするなよ」
「違う、俺は一度も好きだなんて言って――……」
 言いかけて、ハッと俺を見た。が、もう遅い。
「……………」
 ……なるほど、もうそうゆう関係に辿り着いてるのか、この2人は。

雨宮陽生

 タクシーで六本木の繁華街を抜けて、細い路地に入ると目的のマンションについた。
「なぁ、俺って、どういう存在ってことにになってるんだろう」
 タクシーを降りところで聞くと、尾形は当然とばかりに言う。
「恋人だろ」
「やっぱり……」
「大丈夫だよ、あいつだってゲイだ。正確にはバイか」
 だいたい想像はしていたけど、相沢といい、これから会う三並敦志といい、どうして尾形の周りにはそういう人間ばっかりなんだろう。類は友を呼ぶ、って本当なのかもしれない。
「あ、そう……」
 杉本さんにも変な誤解されたみたいで、なんか嫌だ。杉本さんには、俺の気持ちをちゃんと話したかった。真剣に相談にのってくれたし、俺のことを心配してくれた人だから。
 尾形はそんなこと、どうでもいいのかよ。
 インターホンを鳴らす背中を見つめて、少し憂鬱になった。

『どうぞ、18階ね』
 スピーカーから低い声が聞こえて、自動ドアが開いた。
 尾形が「行くよ」とでも言うようにチラリと振り返って、エントランスに入っていった。そのあとを追ってドアを抜けると、白と黒でまとめられた広いロビーにカッチリとスーツを着たコンシェルジュが2人いて、俺たちが入ると居住階へのエレベーターのドアを開けてくれた。
 そのエレベーターに乗って、18階のボタンを押す。最上階だ。
「セブンスフィアの社長になると、こういう生活ができるんだな」
 尾形はどこかからかうような口調で言った。

 株式会社セブンスフィア。
 サイトに掲載されていた会社概要だと、設立14年目で資本金56億5千万円、年商600億円。これから会うのは、今年6月に就任したばかりの新社長、三並敦志31歳。
 31歳で600億の会社の社長、か。俺が会った大会社の社長はみんなじいさんの知り合いだけあって、40代以上。たった31歳でそんな地位に上り詰めた人に、純粋に興味があった。テレビで見る限りじゃ知的な紳士ぽかったけど、尾形の遊びの師匠となると、違うような気がする。
「ワンフロア占有ってことか」
 エレベータを降りると、広いエントランス。ル・コルビュジエの黒いソファと尾形より背の高い大きな葉の観葉植物が置いてあった。
 背後でエレベーターのドアが閉まると同時に、あえてエレベーターから少しずらした位置にある玄関のドアが、静かに開いた。
「久しぶり」
 テレビで見た紳士的な顔とはまるで違う、挑戦的な笑みを浮かべた三並敦志がいた。
 身長が尾形よりも少し高くて、文系でも理系でも体育会系でもない、ほどよくシッカリした肩幅。服装はラフだけど、俺から見ても、男なら一度はこういう体格に憧れるんじゃないかな、なんて第一印象で思うくらいスタイルがいい。
「どーも」
 尾形は微塵の遠慮もなく中に入ると、靴を脱いで用意してあったスリッパをひっかけてスタスタと廊下にあがった。相変わらず偉そうだけど、三並敦志はそれに気を悪くするでもなく、俺にも同じ笑みを向けた。
「君も、どうぞ」
「どうも……」
 無駄に広い玄関をあがると、左右に伸びる廊下の白い無地の壁に、近代絵画がバランスよく飾られていた。
 たぶん、センスがいい。
「そこを左に行った突き当りね」
 尾形は言われたドアを開けて、本当に遠慮せずに入っていく。
「へー、やっぱり広いな」
 尾形が感心したように、リビングは想像以上に広くて天井が高い。ダークグレーのフローリングにバランスよく黒い家具とアクセントに赤が置かれていた。やっぱりどれもデザイナーズの高そうな家具で、いまいち生活感に欠ける感じがした。
 そして、壁一面のでっかい窓には東京タワーの赤と白の光がくっきりと映し出されていた。

 あ……嫌なことを、思い出した。
 楽しみたいのにな……。

 気付かれないように深呼吸して、脳裏に浮かんだ赤い映像をかき消した。

尾形澄人

 久しぶりに見た敦志の顔は、4年前最後に会った時よりも、驚くくらい落ち着いていた。
 昔はもっと角があったのになぁ、なんて思いながらリビングに行くと、すでにダイニングテーブルに料理が並んでいた。この部屋だったらフレンチかイタリアンか、と思ったら、どれも手作りの純和食だ。
「健康的だな……年上?」
 まさか、40代のオヤジだったりして。という俺のありえない予想に、敦志が真顔で、
「違う。俺がそろそろ太りやすくなってきたからね」
「ははは、あんたがそういうこと言うようになったんだ」
 笑いながら手に持っていた紙袋を差し出すと、敦志は4年前に俺が空港で渡した手土産を受け取ったときと同じように、ニヤッと笑った。
 ちなみに、あの時は500ドルの媚薬入りローションだったわけだけど。
「ここで広げてもいい物だろうな?」
 敦志もあの時のことを思い出したのか、疑い深げに俺を見た。
「もちろん。俺もそこまで非常識じゃないよ」
「嘘つけ」
 4年前と同じように冗談を言いあいながら、敦志は袋を開けてワインを取り出した。ちらりと隣にいた雨宮を見ると目が会って、変にぎこちない笑みを作った。
 緊張しているとか? いや、こいつに限ってそんなことないよな。
「こいつ雨宮陽生。今一緒に住んでる」
 とりあえず敦志に紹介すると、
「へえ、おまえが?」
 と、驚いたように目を細めて雨宮を見た。想像通りの反応。アメリカにいた頃の俺は、特定の誰かと付き合うなんてことは絶対になかったし、誰かを縛ることも縛られるのも嫌いだった。そもそも恋愛なんてものに興味がなかったし。
 それが、今じゃ男と一緒に住んでいる。俺自身、1ヶ月前は想像すらしていなかった。
「どうも、三並っていいます。会えて嬉しいよ」
「……こちらこそ」
 雨宮は、言葉とは裏腹、まるで睨みつけるように三並を見上げた。
 そういえば俺と初めて会ったときも、こんなふうに敵意むき出しで睨みつけて壁を作っていた。
 一線を越えないよう、越えられないように。
 その理由はだいたい想像つくけど、今はそれだけじゃないとも思いたい。例えば、嫉妬や不安がその中にあったとしたら嬉しい、なんてことを思うほど、俺は雨宮に惹かれてる。そんなこと雨宮はもちろん、敦志も思ってないだろうけど。
「かなり若いんじゃない? 何歳?」
 雨宮の態度なんて敦志が真に受けるはずもなく、いつもと変わりない態度で雨宮に聞いた。
 これが、三並敦志って男だ。相手がどうであろうと、怯むこともおだてることもない。誰に対しても同じように優しく、冷たい。
「18。今度大学受験だよ」
 雨宮が答える前に代わりに俺が答えた。
 相沢に戸籍を作ってもらうときに、すぐに大学に入れるように1歳だけ年をプラスしたと言っていた。だから、戸籍上は雨宮は18歳になることが決まっている。それを説明のも面倒だし、こんな話をするためにここに来たわけじゃないから、あえて本当のことは言わないことにした
「大学受験、ね。懐かしいな」
「……敦志、言葉の節々にオヤジ風味がのっかってる」
「風味? ま、若い奴見るとついね。俺も紹介したい奴がいるんだ」
 そう言ってキッチンに消えていった。
 そういえば電話でもそんなこと言ってたな、なんて思いながら待っていると、すぐにキッチンからその男を連れて来た。

 彼の顔を見て、驚いた。

 思わず声を上げそうなくらい、意外な男だった。
 いや、俺はともかく、父親のことを調べまくっていた雨宮が気付かないわけがない。雨宮を見ると、やっぱり驚いたように目を見張っていた。
 20代後半とは思えない落ち着いた雰囲気に、それでも消えない彼が元々持っている柔らかで人懐っこい笑みが印象的な男は、雑誌やテレビで見るよりも少し若く見えた。
 彼は無駄のない足取りで敦志の隣に立つと、敦志とは対照的に相手の緊張を和らげる笑みを浮かべて俺に右手を差し出した。
「坂崎です、はじめまして」
 間違いない、衆議院議員の坂崎悠真だ。
 敦志の相手が政治家だったことにも驚いたけど、それだけじゃない。
 坂崎悠真は、去年の6月に自殺に見せかけられて中国人の殺し屋に殺された鹿島弘一の秘書をしていた男だ。そして、去年10月の鹿島の穴を埋める補欠選挙で弔い出馬して初当選した28歳の超若手議員。
 しかめっつらの鹿島とは対照的な物腰の柔らかい好青年だから、マスコミ受けもよくて、俺が見た雑誌や新聞ではどれも好意的に扱っていた。
「はじめまして、尾形です」
 驚きを隠して彼の右手を握り返すと、彼は「会えるのを楽しみにしてました」とありがちな挨拶をして、チラリと雨宮を見た。
  鹿島弘一の遺体の第一発見者で、その後の弔い選挙であっさり当選し、雨宮雅臣と同じ派閥の新人議員だ。少しでも事件の真相を知りたい雨宮にとっては、すぐにでも問い詰めたいくらいだろう。俺でさえ、聞きたいことは山のようにある。
「こっちが雨宮陽生」
 あえてフルネームで紹介すると、坂崎悠真は驚いたようにわずかに目を見開いた。
「え?」
 彼の小さな声が、雨宮の耳にも届いたみたいだ。頬が少しだけ動いた。
「あれ、どこかで会ったことある?」
 わざと知らないふりをして聞くと、坂崎悠真は人懐っこい笑みに戻って答えた。
「いえ、友人の子供と同じ名前だったんで」
「ふーん……」
 その友人っては、雨宮の父親のことで、子供は紛れもなく雨宮だ。子供の名前まで知ってるということは、坂崎悠真はかなり雨宮雅臣と親しかったってことになる。
 少しは手がかりがつかめるかもしれない、そう思って雨宮を見ると、雨宮らしい芯の強そうな目をして口を開いた。
「偶然ですね。その友人って?」
「ええ、先日――……いえ、仕事仲間ですよ。それよりも食事にしませんか? せっかくの料理が冷めてしまいます」
 先日亡くなった、と言いかけたんだろう。けれども、死んだ人間の話をするのも気が引けたのか、それとも別の理由があるのか。坂崎悠真は、得意の笑顔で話を切り替えて、俺たちを椅子に座らせた。