始まりの日

赦罪 - 6

杉本浩介

 深川の逮捕から1週間、捜査一課で科捜研の尾形の名前を聞かない日はなかった。
 基本的に刑事は科捜研の人間と関わることは少ないが、今回の一件で名誉の負傷を追った、ある意味刑事よりも命がけで捜査していた職員、という尾形の名前が一人歩きしていた。それも、呆れるほど根も葉もない噂を伴って。
 で、もちろん尾形が退院後に初出勤したその日、捜査一課にもいち早く情報が入った。
『尾形さんが来てるみたいですよ。杉本さん、仲良かったですよね?』
 聞き込み中に一課の若い刑事から携帯にわざわざそんな報告を受け、
「あのなぁ、それだけのために電話してきたのか? 俺は尾形の保護者か」
 とか言いながらも、結局、尾形に電話をするあたり、俺もかなり尾形に振り回されている口かもしれない。
 立ち食い蕎麦屋で注文した盛り蕎麦を待っている隙に科捜研の尾形の直通にかけると、2コールで電話に出た。そして、
『はあああああぁ……』
 と、でっかい溜め息が聞こえた。それから「しまった」と呟く。
『今、杉本さんの声聞いてホッとした』
「あのなぁ、しまった、はないだろ。癒し系の俺の声をありがたく思え」
 いつもの調子で冗談を言うと、隣で新聞を読んでいた岸田さんが訝しげに俺を見た。田口真奈美殺害事件で一緒に組んでいる、1つ年上の代々木警察署の刑事で、目つきが鋭くていかにも刑事らしい外見だ。
『俺、久しぶりに来たら、もの凄い有名人になってない?』
 心底困ったように言って、また溜め息をつく。
 熱狂的な尾形信者である日比野の弟が尾形をまるで自分のことのように自慢し回っていて、もともと充分すぎるほど派手な経歴の尾形のことは、あっと言う間に尾ひれを付けて広がった。
 ただ、それを尾形に言って日比野弟に降りかかる悲劇を想像すると、さすがに本当のことは言えない。
「そりゃぁ、刑事でもないのに名誉の負傷だかからな。一課の連中の闘争心に火が付いたんだろ」
 そう適当に理由をつけると、尾形は疑うようにほんの少し黙り込んで、小さく息をつく。
『……ふーん。で、何か用だったんだろ?』
 どこか納得してなさそうな口調だったが、話を変えてくれたことにホッとした。
「そうそう。田口真奈美の捜査してるんだけど、ちょっと意見を聞きたくてね」
 尾形のことだから、自分のテリトリーじゃなかったとしても情報くらいは入っているはずだ。そう思って聞くと、案の定「だと思った」と言って、ちょうど鑑識から帰ってきたところだと説明した。
『気になるのは、防衛大臣の切り抜きに刺さってた果物ナイフ』
 尾形が核心に触れたところで盛り蕎麦の大盛りがカウンターから出てきて、岸田さんが運んでくれた。尾形と話しながら軽く会釈をして受け取ると、岸田さんはニヤッと独特の癖のある笑みを浮かべた。
「そんなのとっくに調べただろ。指紋もなし、犯人が入手したにしても購入ルートからは何も出なかったよ」
『知ってるよ、そんなこと。でも、犯人は元々部屋にあった電気コードで殺害してるんだろ?』
 尾形に改めてそう言われて、不自然な流れに気が付いた。
「……そうか、妙だな」
 真奈美の家にも果物ナイフがあった。果物ナイフじゃなくても、包丁でもカッターでもアイスピックでも、刺さるものだったらなんでもいいはずだ。
 凶器の電気コードは真奈美の家にあったものを使っているのに、どうしてわざわざ、犯人がナイフを買ってくる必要があったんだ?
 それを言うと、尾形がどこか楽しげに頷いた。
『そう。そこがポイント。どうして持ち込んだんだと思う?』
 聞きながら蕎麦をすすると、尾形が合間に「蕎麦だな」と俺の食べているものを当てた。蕎麦は正解だが、持ち込んだ理由は、
「さぁな。動揺してたからとしか、俺には思いつかん」
 俺のありきたりな答えをバカにするように、尾形は小さく笑った。いちいち癪に障るな。
『考えられる理由は3つ。①何かメッセージがこめられている。②何らかの理由で真奈美の部屋にあったナイフを使いたくなかった。③杉本さんの言うように、気が動転していた。』
「おまえはどれだと思う?」
『さあね。人殺しの心境なんて、分かりたくもない』
 自分から話を振っておいて、まるで興味が他にそれたように言う。
「犯罪心理学の教授だったくせに、何言ってるんだよ」
 何が目的で犯罪心理学なんて研究してたんだ。
『だから辞めたんだよ。俺はいつだって被害者目線でいたいわけ』
「嘘つけ。自分でSだって言ってただろ」
『もちろん。ま、犯罪者を追い詰めるには、犯罪者の心理を理解したほうが早いって分かったことが、教授やっての最大の成果だね。つまり、俺は犯罪者の心理を知るために研究してたんじゃなくて、徹底的に犯罪者を追い詰めるために、相手の弱点を研究してた、ってわけ』
 しれっと、恐ろしいことを言う奴だ。
 罪を憎んで人を憎まずなんて言葉は、尾形には通用しそうにないな……。
「…………おまえが味方でよかったよ」
 心から言うと、尾形はケラケラと笑った。
「で、その犯罪心理学的なところで尾形が考える犯人像は?」
『プロか素人の判断はできないけど、几帳面なのは確かだな。指紋の拭き取り方とか、雑誌の切り抜き方とか、すごい丁寧だろ。全てにおいて、几帳面で完ぺき主義。家の本棚がちゃんと作家別に整理されてないと気がすまないようなね。
 それと、一課が睨んでいるとおり、犯人は田口真奈美の顔見知りだった可能性が高い。合意のうえ部屋に上がりこんで殺害したんだろうな。あとは、指紋をふき取った範囲が広かったのが気になる。もしこれが意図的なものじゃないとしたら、犯人は最初は田口真奈美を殺すつもりじゃなかったのかもしれない』
「つまり、話しているうちに口論になった?」
 突発的な犯行だとしたら、そう考えるのが普通だ。けれども、
『いや、口論さえしてなかったかもしれないね。真奈美は後ろから抵抗する間もなく絞殺されている。通常、首を絞められて意識を失うまでは少なくとも15秒かかるのに、首に巻きつけられたコードを引き剥がそうとすらしていない。
 つまり、真奈美は殺されるなんて思ってなかったんだろう。首に電気コードを巻かれた瞬間、何が起きたのか分からなかったくらいだと思うよ』
 殺されるなんて思ってもいなかった。――だから抵抗もせず、意識を失い、命を奪われた。

 世の中の大半の人間は、自分が殺されるなんて思ってもいない。だから、人を信頼でき、信頼される。それを最大限に裏切る行為が「殺人」なんだと、尾形の言葉を聞いていると思えてならない。
 殺人は、最大の裏切り行為なんだと。

「わかった。俺には①と②の線はわからんから、とりあえず③の線でもう一度周辺の店をあたるか」
 田口真奈美のマンションの周辺は事件直後に調べていたから、再捜査はしていなかった。けれども、もし犯人の気が動転していたのなら、現場近くで買った可能性が高い。単純に聞き込みが足りなかったことも否定できない。
『それと、新情報。雨宮の収穫なんだけど、去年の6月に自殺した鹿島弘一って衆議院議員いるだろ。相沢が横取りした中国人殺し屋が、殺害を認めたみたいだ』
「……嘘だろ?」
 1週間前に雨宮と話したときに「最近死んだ、右翼に敵視されてた人間はいるか」と聞かれて、俺が答えた男の名前だ。
 警察は自殺に断定したけど、大物議員だけに他殺の噂は今も残っている。けれど、まさかあの中国人が実行犯だとは思いもしなかった。
 偶然か――それともどこかで繋がっているのか?
『杉本さん、この事件のこと知ってる?』
「いや、簡単な経緯しかしらない。確か議員宿舎で首を吊って死んでいるのを迎えに来た秘書が見つけたんだよ。そういえばその秘書、その後補欠選挙で当選してたっけな」
『へぇ、ちゃっかりしてるな。弔い出馬ってやつ? 政治の世界なんてそんなもんか』
 少し非難するような口調で言う。
「さぁな。人には色々な事情がある。詳しく知りたいなら足利さんに聞いてみろ」
『ああ、そういえばお蔵入りしてる事件の資料読むのが好きだって、日比野が言ってたっけ』
「気になった事件の捜査資料読むのが趣味みたいだからな。資料からわかることなら、だいたい知ってる」
 どうして捜査資料がそんなに好きなのかと聞いたことがあるが、足利さんは本気なのか冗談なのか「人間の悪の部分がここまで直接的かつ具体的でリアルに描かれている『小説』はないぞ~」と笑っていた。確かにその通りかもしれない。
 ただ、あまりにもリアルで具体的だと、普通は精神的にダメージを受けてしまう。それを受け入れる――いや、撥ねつけるだけの強さは俺にはない。
『じゃぁ足利さんに聞いてみようかな……今回の件と関係あるかどうかはわからないけど、同じ殺し屋を使ってたってところがどうしても気になるんだ』
「そうだな。この事件、なんだか色んな糸が複雑に絡み合ってるような気がするぞ……」
 雨宮夫妻を殺した殺し屋、それを深川に依頼した依頼人の魂胆、深川と黒田、一ノ瀬の関係、そして、田口真奈美と防衛大臣脅迫の真相。糸が多すぎて、一瞬どれがどの糸なのかわからなくなるくらい、複雑だ。
『気がする、じゃなくて、実際に絡み合ってると思うよ。それも、2本や3本じゃない。組織がでかいだけに、10本くらい絡んでてもおかしくないんじゃないか?』
「まあ、1本1本着実にほぐしていくしかないか」
『そういうこと。じゃ、よろしく』
 尾形はあっさりそう締めくくると、一方的に電話を切った。

尾形澄人

 夕方、庁舎内の自販機コーナーに行くと、久しぶりに見る顔があった。偶然ここで会わなかったとしても、近いうちに話がしたかったから丁度いい。
「久しぶり」
「あら、名誉の負傷はもう大丈夫なの?」
 声を掛けると、神田みちるは、一瞥するように俺を見てミネラルウォーターのボタンを押した。
「ご心配どうも。見ての通り、普通に歩けるくらいにはね」
「あなた、実はずいぶんな経歴持ってたのね。ちょっと笑ったわ」
 言いながら自販機からペットボトルを取り出すと、俺を見てうっすらと挑発的な笑みを浮かべた。何度見てもこの顔には鑑識課の地味な作業着が似合わない。
「そのずいぶんな経歴の半分は間違ってるから」
 俺がアメリカの快楽殺人鬼を更生させるわけがない。どうすれば、そんな根も葉もない話が出来上がるんだろう。いや、根が誰なのかはとっくにわかっている。ただ、それをここまで広げられる人間の想像力に、呆れたりもする。
「そうよね、尾形なら拷問することはあっても、更生なんて絶対に無理よね」
 神田は優雅に笑って頷くと、夕日が強く差し込む窓際のベンチに座って、脚を組んだ。
「そういうこと」
 適当にあしらいながら自販機でペットボトルの緑茶を買って、神田の隣に腰を下ろした。
 ここはすぐ隣にトイレと喫煙ルームと給湯室があるから、意外と人通りの多い一角で、俺と神田が一緒にいるのがそんなに珍しいのか、通り過ぎる人間が示し合わせたように、見て見ぬフリをして通り過ぎて行く。
 神田もやっぱり鑑識課の中では目立つ存在なんだろう。プライベートが見えない美女。言い寄る男は多いけど、その誰とも付き合わないのは、彼女が同性愛者だからだと知っているのは、警視庁ではたぶん俺だけだ。いや、もしかして――。
「16階のイケメンと付き合ってるんだって?」
 日比野から聞いた噂を言うと、神田は呆れたように溜め息をついた。
「尾形までそんな噂信じてるの? ただの幼馴染よ」
「ふぅん。神田にしてはありがちな回答だな」
「カモフラージュとでも言って欲しかった?」
「まさか。浮気相手の三角関係だったら面白いって思ってたくらいだ」
 ニヤッと笑って言うと、神田は一瞬だけ曖昧な笑みを浮かべた。けれどすぐにそれを掻き消して、いつもの不敵な目をする。
「怖いくらい幸せなのって、言ったでしょ。何か文句ある?」
「あ、そう。今がピークなら後は落ちるだけってことか」
 冷ややかに睨みつけてやると、彼女らしく面白そうに笑った。
「警護課1係だったっけ?」
「そ。この前の失態で人員が大幅に入れ替わったときに、配属されたみたいよ」
 失態というのは、まんまと雨宮夫妻が殺された事件だ。あの日も1係が警護していたんだろう。あの時警護していたSPは、自ら退職したり異動願いを出したと聞いている。上から言われたりもしたんだろうが、SPとしての責務を果たせなかったという事実は、おそらくあの時の彼らにとっては屈辱的で今後続けていく自信を失うのに充分なものなんだろうな。
「神田と幼馴染ってことは、29歳?」
「残念。私より年下、24よ。昔は泣きながら私にくっついてきて可愛かったのに、今じゃ冷静沈着、淡白なくせに辛辣な憎たらしい男になっちゃったわ」
 言いながら持っていたミネラルウォーターのキャップを丁寧に閉める。そして、片手をベンチについて少しだけ体を俺の方に傾けると、声のトーンを落とした。
「で、どうして尾形がそんなこと聞くのよ」
 やっぱり、この女は侮れない。
 正規のルートで総理に会えるわけがない。俺のありったけのコネを使ったとしても、直接、それも込み入った話をするなんてことは、無理に近い。けれども警護課の人間なら、ほぼ24時間総理と過ごしている。移動時や総理が1人になる瞬間を教えてもらえれば、うまくすれば2人だけで話せるかもしれない。
「ちょっと、色々あってね。総理と直接話したいんだけど、ツテを探している」
 同じ小声で答えると、神田はからかうように笑った。
「ふふふ、面白そうね。例の高校生がらみ?」
「相変わらず鋭いな」
 そう認めると、神田は一瞬だけ驚いたように俺を見て、それから視線を伏せた。長い睫が、夕日で影を作った。それから、呟くように。
「……本気、ね」

「ああ」

 あいつのために、何かしてやりたいと思う。
 俺にできることなら、どんなことでも。
 だから総理と直接話したい。

 神田は少しだけ考え込むように黙り込んだ。そして、小さく溜め息をつく。
「言っておくけど、総理なんかのSPにしておくのが勿体ないくらい、男前だから……惚れないでね」

 どうやら、さっきの憎まれ口は神田なりの愛情表現だったみたいだ。