始まりの日

赦罪 - 5

尾形澄人

 久しぶりに雨宮のエロい顔を見れたし、慣れたベッドでぐっすり眠れたせいか、すっきりと目が覚めた、翌月曜日。
 朝から大学の説明会へと出かけた雨宮を見送ってから、のんびりと家を出た。
 退院して初めての出勤だ。科長からはもう少し休んでいいと言われたけど、そもそも体を動かすような部署じゃないし、あの事件のことが気になって調べたいことが山ほどある。
 って言っても、最初に来たのは科捜研じゃなく、鑑識だ。

 1本だけのアルミ製の松葉杖をついて開けっ放しのドアを抜けると、見たことのある40代後半あたりの鑑識官が俺に気付いた。左胸のIDカードに「遠山誠一」とあった。
「あれ、尾形さん。もう退院したんですか」
 下がった黒縁の眼鏡を上げながら、少し驚いたように言う。話すのは初めてだ。
「おかげ様で」
 答えながらオフィスを見回した。神田も他の知り合いもいない。出入りの激しい部署だから期待はしてなかったけど。
「遠山さん、田口真奈美の殺害現場にあった遺留品、見せてもらいたいんですけど」
 かなり唐突な頼みのはずなのに、遠山さんはあっさりと頷いた。
「あぁ、再捜査ね。ついさっき一課の日比野さんから電話がありましたよ」
「再捜査?」
「あれ、聞いてないんですか? 2係が再捜査するから遺留品をもう一度見せて欲しいって張り切ってましたよ」
「へぇ」
 再捜査、か。2係っていうと杉本さんの部署だ。
 深川が全面否認してるから、決定的な物的証拠が見つけなきゃ起訴もできないんだろう。あとで詳しく聞いてみるか。
「じゃぁ、そろそろ来る頃かな」
「来る、じゃなくて来ましたね」
 そう言う彼の視線をたどって振り返ると、入り口で日比野が露骨に険しい顔をして俺を睨んでいた。
「どうも、久しぶり」
 にっこりと笑って挨拶してやると、日比野はさらに顔を引きつらせて、オフィス中に響き渡る声で怒鳴った。
「おまえ、寝るなよ! 人が心配してやったのに、寝てんじゃねーよっ!!」
 は? 何言ってるんだ、こいつ。っつーか。
「心配してくれたのか」
「はあ!? してねーよっ」
 どっちだよ。相変わらずバカだな。
「おまえ、田口真奈美の遺留品見に来たんだろ?」
 冷静に言うと、日比野はまだ苛立ちを抑えきれないように舌打ちした。
「そうだよ、なんでおまえがここにいるんだよ」
「俺もそれ見に来たから。俺たち意外と気が合うみたいだな」
 ニヤッと笑ってやると、日比野はまた顔を引きつらせた。こいつ、よく刑事なんて務まるよな。職務質問とか苦手なんだろうなぁ。
「じゃぁ、行きましょうか」
 遠山さんが年の功で日比野を落ち着かせると、書類を手にオフィスを出て行った。
 どうやら彼が保管庫に案内してくれるみたいだ。ドアの近くにいたのも、日比野を待っていたんだろう。
 それから3人で未解決事件の遺留品が保管されている倉庫に入って、遠山さんが手元の書類を見ながら棚を探す。そして、比較的入り口近くに、その箱があった。
「これですね」
 言いながら、ビールケース大のダンボール箱を棚から下ろし、壁際のテーブルに置いた。
「それじゃぁ、私は捜査会議があるんで失礼します。見たら戻しておいてください。持ち出すときは、入り口にいた係官に言ってくださいね」
 彼は注意事項を簡潔に説明して、すぐに保管庫を出て行った。
 さっきも思ったけれど、やけにあっさりしてる男だ。
「あの人、何係?」
「遠山さん? 指紋採取のベテラン職人」
 答えながら日比野がダンボールから1つずつビニール袋に入った遺留品を取り出した。
 なるほど、現場専門だから会ったことがなかったのか。
 鑑識課は驚くほど作業分担がしっかりしている。指紋関係はその中でも特別で、採取、照合、管理、研究の4係に分けられている。つまり、指紋はそのくらいデリケートで、証拠能力が高いということだ。指紋を扱うことにおいて「職人」と言うのは、あながち間違っていない。
 その指紋は、田口真奈美の遺留品からはほとんど検出されなかったと、鑑識資料にあった。
 日比野がテーブルに並べた遺留品は、洋服、凶器の電気コード、果物ナイフ、防衛大臣の雑誌の切り抜き、髪の毛や繊維片といった細かいもの。全て個別にポリエチレンの保存袋に入っていている。
 雑誌の切り抜はカッター特有の直線で切られているところを見ると、これを雑誌から切り抜いた時は落ち着いていたのかもしれない。髪の毛や繊維片は科捜研で鑑定してたけど、どれも田口真奈美のマンションに元々あったものだった。
 そして、一番気になっていた果物ナイフを拾って、目の前でかざしてみた。
「おい、邪魔するなよ」
 日比野が資料と中身のものが一致しているかチェックする手をとめて睨みつける。
「すぐ終わる」
 どこにでも普通にある、プラスチックの黒い柄のナイフだ。
 刃先が折れている以外には、傷がほとんど付いていない。これは床に突き刺したときに刃が折れたと考えるのが普通だ。現に床から金属のかけらが発見されていて、割れ目が一致している。それ以外に傷が付いてないってことは、犯人が外から持ち込んだ可能性が高い。
「日比野、このナイフ、田口真奈美の持ち物じゃないって確証、あるか?」
「確証? ……そういえば、田口真奈美のキッチンに、もう1本、別の果物ナイフがあったらしい。メーカーも違うし、買い換えるほど古くなかったから、新品の果物ナイフがあったことが不自然だって、足利さんが言ってたな。まぁ、犯人が持ち込んだとしても、年間2万本以上売れてるナイフの購入者から探し出すのは無理だしな。周辺の店には聞き込みしたらしいけど、それらしい人間はいなかったみたいだ」
「へぇ……あれ、そういえばこの事件って1係が担当してたのか?」
 足利さんは1係の係長だ。この事件にそんなに詳しいってことは、足利さんが担当したのかと思って聞くと、
「いや、5係。足利さん、こういうお蔵入りしかけてる事件の調書読むのが好きなんだよ。クソ忙しいのによく担当以外の事件に興味持つよな、あの人」
「ま、何を差し置いても仕事が一番っつー人間だからな」
 俺も、そういう人間をよく知っている。そのせいで家庭を放置した親を。
「尾形だってそうだろ」
「どこが?」
 そんな切り返しをされるとは思わなかったから、一瞬意味がわからなかった。それを汲み取った日比野が続ける。
「刑事でもない単なる警察職員のくせに現場に出て、徹夜で仕事して、しかも死にかけたわけだし」
「ふーん、そういうふうに見えるんだ」
 けれど、それは違うな、日比野。仕事だから徹夜したり死にかけたわけじゃない。
 ま、おまえに話す筋合いもないし分からないだろうから説明しないけど。

 そんな会話をしながら一通り遺留品に目を通したところで、静かな室内に携帯の呼び出し音が響いた。俺の携帯だ。
 ポケットから取り出してディスプレイを見ると、思いもよらない名前が表示されていて、声が弾んだ。
「久しぶり、『三並社長』。就任おめでとうってところか?」
 隣で日比野が驚いて顔を上げた。やっぱりこの「三並」って名前は、かなり広がってるってことか。
『久しぶりだな。4年ぶりか?』
「アメリカで見送って以来だからね。活躍してるみたいだな」
 この懐かしい声の持ち主は、最近急成長したIT会社、株式会社セブンスフィアの社長、三並敦志だ。アメリカにいたとき、俺が唯一尊敬していた7歳年上の男だ。顔は雑誌やテレビで見ることがあるから、そんなに久しぶりな感じはしないけど。
『なんとかね。おまえ警視庁にいるんだろ? ちょっと聞きたいことがあってさ』
 口調は落ち着いていたけど、本当は忙しいのかもしれない。挨拶もそこそこに、すぐに用件に入った。
「何? っていうか、せっかくだし会いに行くけど?」
『いいのか?』
「ああ、敦志と違って、暇な公務員だから」
 警視庁にいる、そして聞きたいことがある。4年ぶりに連絡してきてそんな言い回しをするってことは、何か特別な理由があるとしか思えない。だから、直接会って話したかった。
『そうか、悪いな。俺もその方が助かる。おまえに紹介しておきたい人もいるし』
「もしかして結婚とか?」
 そう聞くと、敦志は少し笑った。
『結婚できる相手だったらいいんだけど』
 へぇ、相手は男か。
「なるほど。じゃ、俺も連れて行こうかな」
『なんだ、おまえもか。俺に紹介するってことは珍しく本気なんだな。やっぱり4年も経つと変わるんだなぁ』
 大げさに納得するように言う。
「それを言うなら、お互い様だろ」
 俺から言わせれば、敦志の方こそ特定の誰かを作るなんて考えられない。とは言え、
「それより、予定は?」
『ああ、水曜の夜は?』
「27日か。仕事終わり、6時半以降なら大丈夫」
『だったら、8時に家に来てくれ。引越した時にメールした住所だから』
「了解、楽しみにしてるよ」
 用件を終えて電話を切ると、日比野が顔を引きつらせていた。
「おまえ、そういう話し方できるんだな」
「当たり前だろ。俺は人を見て態度を変えるんだよ」
「性格悪すぎだろ……っつーか、三並って、あの三並敦志だったりして」
「なんだ、しっかり聞いてたのか」
 それを聞いて、日比野は急に顔を明るくした。
「嘘、マジで!? あの人すっげぇよなー。31歳であんな大会社の社長で、しかもモデル並みにかっこいいし。同じ男が見ても憧れるよ」
 日比野兄弟って、好みのタイプは違っても揃ってミーハーなのか。そうなると、次に出てくる言葉は。
「そんなことよりさ、おまえ神田の方はどうなってるんだよ」
 会わせて欲しい、なんて言われる前に話をそらそうと思って聞いただけだったけど、どうやら押してはいけないスイッチだったみたいだ。日比野は一気にテンションを下げた。
「……っうせーなぁ、もうとっくにフラれたよ」
 ま、早いKOだけど当たり前か。あいつレズだし。っていうのは日比野には言わないでやろう。
「残念だったな」
 せっかく珍しく気をつかってやったのに、日比野から見たら俺があっさり納得しているのが気に入らなかったのか、ジロリと俺を睨みつけた。
「おまえ、神田さんに同棲してる人がいるって知ってただろ」
「へぇ、さすがにそこまでは知らなかったな。あの神田と一緒に住めるなんて、相当ヤバイ神経の持ち主だな」
「なんだよ、それ。相手は16階のイケメンだってさ」
「は? イケメン?」
 ってことは、男?
「マジ、イケメンじゃなかったら、ぜってー許さねぇよ」
 いや、そうじゃなくて男ってどういうことだ? あいつはレズだけど世間体なんて気にして偽装するような奴じゃない。それにこの前幸せすぎてどうのって俺にノロケたくらいだ。
 いや、神田のことはどうでもいい。気になるのは、16階――警備部の男っていうところだ。
「警備部とどうやって知り合うんだよ」
 警備部は鑑識とはほとんど接点がない。少しずつ情報を引き出すために、まずは神田に関するところから責めると、意外と情報収集能力に長けている日比野は、予想通りペラペラと話し始めた。せっかく集めた情報をカードにしないあたり、バカっつーか抜けてるっつーか。
「SPらしいんだけど、実家が近くだったみてーでさ。しかも俺と同期だぜ? 神田さんってやっぱり年下好みだったんだよなぁ」
 日比野と同期ってことは25歳――若いから、さすがに1係じゃないだろうな。
 ちなみに警護課1係は内閣総理大臣の警護担当だ。
「名前わかるか?」
「なんでそんなこと聞くんだよ」
 不審そうに俺を睨みつける。こいつの場合、視線のベースが睨みたいだ。
「別に。警護課の奴と友達になりたいだけ」
「……気持ち悪りぃな」
「いいから、教えろよ」
「……月本って奴だよ。今月警護課の1係に配属されたみたいだ」
 すごい、ビンゴだ。
「日比野、はじめておまえに感謝したよ」
 神田に頼めば、その月本って男と話せるかもしれない。そいつがもし雨宮総理の警護をしているとしたら、彼を介してでも、いや、うまくすれば直接、総理と話せるかもしれない。

 話してみたい。雨宮を育てた男、雨宮総理と。

雨宮陽生

 ――自分が腐るくらいだったら、人や物に頼ってもいいと思います。

 月本が3年前に言った言葉を思い出した。

 みなとみらい大学の講堂の窓際一番後ろの席から、大学の長所を力説する中年オヤジを横目に階下の庭を見下ろした。
 普段なら居眠りしてるつまらない説明会でも起きていられるのは、昨夜ちゃんと眠れたからだと思う。
 久しぶりに、あの夢を見なかったから。
 尾形に会っただけで、こんなにぐっすり眠れるとは思わなかった。尾形がそこにいるだけで、何かが違う。それは俺にとって尾形がどれだけ大きな存在なのか、思い知らされたみたいで、少し癪にも障るけど……。

 3年前、月本が麻布の家を売却するための書類を整理している時に、何を思ったのか、本当に突然、話し始めた。
「会長はずっとあの家を必要としていたんです」
 いつもと変わらない口調だったけど、その時だけは、いつもじいさんに対して冷たかった月本が、少し優しかったような気がする。
「会長にとって、あなたのお父さん、雅臣さんはたった一人の大切な息子だったんです。自分の子供との記憶が残っているこの家に住むことはできない。けれど、手放すこともできなかった。わかりますか?」
「住まないんだったら、さっさと売ればいいだろ」
 わからなかったからそう言うと、月本は少しだけ微笑んだ。
「では、会長にとってあなたの両親を失ったことが、どんな哀しい出来事だったのはわかりますね?」
「まぁ家族が死んだんだからな」
 言葉ではそう答えたけど、その時のその辛さを理解していなかった。俺には両親の記憶なんてなかったし、身近な誰かが死ぬということを経験したことがなかったから。けれども、月本は柔らかく頷いて、
「けれども、逃げることはできないんです。その辛さから逃げることも、忘れることもできない。その哀しい記憶を持ったまま、生きていかなければなりません。それは、本当に辛いことですし、エネルギーが必要なことです。
 そういうとき、人は何かに頼ってもいいと私は思います。自分が腐るくらいだったら、人や物に頼ってもいいと思います。
 会長にとっては、それが麻布の家だったのでしょう。雅臣さんと祥子さんとの記憶が残っているあの家を時々外から眺めることで、心が腐るのを食い止めていたんでしょう」
 月本はそこまで言って、それから何か思いついたように顔を上げた。
「……防腐剤、ですね。家という防腐剤を失うことが怖くて、ずっと手放せなかったのかもしれませんね」
 俺はそれまで、じいさんが「幸せだった頃の思い出」に縋っているんだと思っていた。昔の思い出に浸って、哀しさを紛らわせてるんだろうな、なんて。だから月本の言葉に戸惑って、「あのじーさんに怖いものなんてあるのかよ」なんて言って適当にはぐらかしていた。
 けれど、そんな生易しいものじゃなかったんだと、今ならわかる。

 たぶん、行き場のない悲しみとか憤りとか理不尽さを消化するために、じいさんには麻布の家が必要だった。総理大臣という立場や、俺に隠し通さなければならないという決心、警察やたくさんの人間に捻じ曲げた事実を公表しているという罪悪感。そういうものを、ぶつける場所として。
 父さんと母さんが殺された、この家が。

 麻布の家とは少し違うけど、俺にとっては尾形との出会いが防腐剤なのかもしれない。
 あの事件の記憶は、容赦なく俺を追い詰めていく。尾形がまるでその強すぎる記憶から俺を守って、俺の心を腐らせないようにしてくれてるような気がする。
 尾形がいることで、俺はここにいて良かったと思える。
 尾形を失うと怖いのは、自分が壊れてしまうのを食い止めてくれる人がいなくなってしまうからなのかもしれない。
 だから、隣に尾形の気配があるだけで、こんなにも心が落ち着く―― 俺にとっては、尾形はそういう存在なんだと思う。