始まりの日

赦罪 - 3

雨宮陽生

 あー、また……泣いてる。
 新しいシーツで涙を拭って、上半身を起こした。
「はぁ……」
 携帯のディスプレイは、8/23 AM04:43。
 昨日届いたばかりのベッドの寝心地は、わりといいほうだと思う。それまでリビングのソファで寝てたから、眠りが浅くてこんな夢を見るんだと、自分に言い聞かせることができたのに。
 鮮明に覚えている悪夢が、また脳に焼き付けるように繰り返されて、喉元あたりが苦しくなった。
 事件が曖昧な終わり方をしてから、ずっと繰り返し父さんと母さんが殺された日のことを夢に見る。目が覚めると決まって涙を流していた。
 今さら、哀しくなんてないのに。
 ただ、どうしようもなく怖くて、不安になって、尾形の声が聞きたくなる。
 携帯を開いて、尾形の番号を出す。
 そして、通話ボタンを押す寸前で、思いとどまった。
 3回もこんな時間に電話したら、さすがに尾形も心配するだろうから。
 今日の昼には帰ってくるんだし、17にもなって怖い夢見て夜中に電話するなんて、ありえない。

 大丈夫。
 落ち着ける。

 深呼吸して眺めたカーテンの隙間からは、うっすらと明るくなった空が見えた。
 もう寝付けそうもないから、いつもみたいに、外を走って気を紛らわせよう。
 そう思って、とりあえず乾いた喉を潤すためにキッチンに行った。
 照明をつけるのも面倒で、薄暗いまま冷蔵庫からミネラルウォーターを出して、ペットボトルのままがぶ飲みする。そして、なんとなくカウンター越しにリビングを見て。
「―――ぶっ!?」
 心臓が止まるかと思った。
 水が気管支に入ったしっ!
「ゲホッ! ゴホッ……はぁ……な、なんで!?」
 俺の咳に気付いて、リビングのソファからむくり、と起き上がったのは、尾形だ。
 間違いなく、尾形だ。
「え、何? どうした!?」
 俺の咳き込みに驚いて、左脚を引きずってキッチンまで、たぶん出来る限り最速で歩いてきて、咳き込む俺の背中をさすった。
「ど、どうしたって……ゴホ、どうしたも何も、なんで尾形がいるんだよ!」
 あー、びっくりした……。
 何とか呼吸を落ち着かせて言うと、尾形は照明を点けて、少しだけ呆れたようにシンクに体を預けた。
「なんでって俺の家だから。そんなに嬉しかった?」
 当たり前って感じで言ってニヤリと笑った。
 久しぶりに見た尾形らしい笑みに、心に詰まっていた何かが流れ出したような気がした。
 俺は、たぶん物凄く尾形に会いたかったのかもしれない。でも、そんなこと言えるわけないし。
「……ばっかじゃねーの。誰だろうが、いきなりいたら驚くだろ」
 顔を背けて、噴出した水を近くにあったフキンでふき取った。
 尾形の視線を感じて、何かしてないと落ち着けない。もう一度水を飲んでペットボトルを置くと、ぐいっと顎を捕まれて、尾形がほんの数センチのとこに顔を寄せてきた。
「な、なに?」
「もしかして、泣いてた? 目が腫れてる」
「なんで俺が泣くわけ? 寝起きだからだろ」
 尾形の手を払って適当にごまかすと、尾形は小さく微笑んだ。
 って、こんなことしてる場合じゃないし!
「そんなことより、なんで尾形がここにいるわけ? 退院は今日の午後だろ? だいたい何時に帰ってきたんだよ!」
 キッと睨みつけて怒鳴ったけど、尾形は悪びれる様子もなくペラペラと説明した。
「あぁ、2時ぐらいかな。もう退院だし、手続きはまた昼間に行ってやればいいと思ってタクシーで帰ってきたんだよ。やっぱり夜中は道がすいてて早いよなー」
 早いよなーって……。
「……つまり病院を抜け出して来たってことだよな」
「メモ残してきたから大丈夫だろ。精神病とかじゃないし」
「はあ? そういう問題じゃねーだろ! こっちだって心配してるんだから、ムチャするなよ」
 そう言うと、尾形はあからさまに俺を睨んだ。
「へぇ。ちゃんと心配してくれてたんだ」
「あ……」
 ヤバイ、怒ってる。そりゃ怒るよな。俺をかばって撃たれたのに、俺はあの1回しか見舞いに行かないんだから。
 尾形に無言でダイニングの椅子に座るように目で促されて、俺は素直に従った。
 謝るべき、だよな。この前は礼も言いそびれたし……。
 尾形は壁や家具を伝いながら俺の正面に座って、でっかいため息を漏らした。
「雨宮さあ……ひとりで何、コソコソやってんの?」
 呆れたような口調。
「コソコソってわけじゃ……」
「別に見舞いに来いとか小さいこと言わないけどさ、電話ぐらいしろよ。たまに電話かと思ったら朝の4時で、留守電にもメッセージないし。いくらなんでも、こっちのが心配するだろ」
「ご、ごめん……」
 昼間は父さんと母さんの告別式に行ったり、毎日図書館や区役所に入り浸ってたし、大学の説明会に行ったり相沢に会いに行ったり、とにかく忙しかったのは事実で、電話に出るタイミングも掛け直すタイミングも、逃していた。そもそも、病院内じゃ携帯を使えないから、繋がる時間帯も限られてるし……。
 そう言おうとして留まった。単なる言い訳にしかならない。
 黙りこむ俺を見て、尾形はまたため息をついた。
「はあ……。で、どこまで自分でやったんだ? おまえの事だから親のこと調べたり、ここで生活していく準備とかしてたんだろ」
 あまりにもあっさり見抜かれて、思わず顔を上げた。尾形は相変わらず呆れたような不機嫌な顔だけど、少しだけ優しくなっているように見えた。
「なんで、そんなこと……」
「わかるよ。そういう奴だろ、雨宮は」
 少し怒ったような口調だったけど、嬉しかった。
 尾形は俺のことを、ちゃんと分かってくれてたんだと、そう思うと嬉しくて、自然と言うべき言葉が見つかった。
「俺、医者になろうと思ってさ」
「医者? 弁護士はやめたのか?」
 前に弁護士になるって言ったの、やっぱり覚えてたんだ。
「あれは暇つぶしに司法試験受けたら受かっただけ」
「あ、そう。それ司法試験落ちた奴が聞いたら殴られるぞ」
「別にいいよ。弁護士もだけど、医師免許って戸籍が必要だろ? だから、相沢に頼んで作ってもらってる」
 そう言うと、尾形は目を丸くして驚いた。
「おまえ、相沢に会ったのか? つーか、あいつがそんな無謀な頼み引き受けたのか?」
 驚きを隠さずに声を上げた尾形がおかしくて思わず笑ってしまった。
「はは、タイムスリップしてきたから戸籍がないって言ったら、引き受けてくれた。さすがに俺も予想外だったけど」
 尾形は本当に信じられなさそうに「嘘だろ」と呟いた。それから思い立ったように。
「……あいつ、マジで雨宮のこと気に入ってるんだな。釘刺しておこう」
「釘って、相沢に変なこと言うなよ」
 俺と尾形が付き合ってるまでは許しても、尾形ならそれ以上のとんでもないことを相沢に言いそうで油断できない。けれども尾形はそんな忠告なんて聞いてないようにニヤニヤ笑う。
「はいはい。それで?」
 こいつ、絶対に言うな……。
「……とりあえず11月に高卒認定試験受けて、そのまま大学受験しようと思う。そのために戸籍上は18歳にしてもらってる」
「そうだな、おまえの頭なら特待生でいけるから、授業料はタダか」
「そういうこと。だから、大学の説明会に行ったりして忙しかったんだよ。それと相沢から気になることを聞いたから、ちょっと調べてた」
 尾形がすっと眉を寄せた。
「気になること?」
 鹿島弘一のことを話すと、尾形はまた信じられないように「そんなことまで教えてくれたのか」と呟いて、
「大物議員の自殺だからマスコミも取り上げていたな。暗殺説なんかも出てたけど、まさにソレだったわけだ」
「俺の両親が殺された理由も、他にあるんだと思う。その理由を知りたいんだ」
 ただの身代金目当てなんかで、殺し屋使って総理大臣の息子を殺すはずがない。
「田口真奈美と雨宮の両親と、鹿島弘一、か。同じ殺し屋が実行犯だったってことは、どこかで繋がってる可能性もゼロとは言えないか」
「うん……でも、正直まだ分からないことだらけでさ。悔しいけど」
 今の俺にできることは限られてる。手がかりがこれしかない以上、それを仮説にして調べるしかない。本当に悔しいけど、俺にはそれしかできない。
 尾形は困ったように笑って、小さく溜め息をついた。
「危ない真似だけはするなよ。死んだ理由を知るよりも、おまえがこれから生きていくことのほうが、ずっと大事なんだから」
 これから生きていくこと。
 事件のあったあの日、たった4歳だったけれど鮮明に思い出した記憶は、残酷で生々しくて、何度も夢でくりかえして、思い出したくないのに、ふとした瞬間に脳裏に浮かぶ。
 その度に湧き出る憤りとか憎しみとか苦しみや恐怖は、どこにぶつけたらいんだろう。
 このまま、この感情の行き先がわからないまま、自分の人生を生きていくことはできないと思う。
 けれど、1週間前と違うのは。
 瀕死の怪我までして俺を助けてくれた尾形や、俺に事件のことを隠してくれたじいさんや、おれをかばって死んだ父さんや母さんの思いを、無駄にしたくない。
「わかってる」
 まっすぐ目を見て答えると、尾形は優しく微笑んだ。

尾形澄人

 天才ってのは、IQが高いだけじゃだめだ。行動力があって初めてその才能が開くんだと、まざまざと見せ付けられたような気がした。

 午前中に退院の手続きを済ませて、今日一日雨宮の行動を観察して思った。
 雨宮は俺をそっちのけで午前中から図書館に行ったり、大学の説明会に行ったりと、とにかく忙しく過ごしていた。
 これなら電話できなかったのも頷ける。

 事件の傷がどれほどのものだったのか俺にはわからないけれど、雨宮はもう自分の足で歩き始めて、前を向いている。
 他の誰でもない、自分の人生を、まっすぐ見つめている。
 そんな雨宮を見て、凄い奴だと思う反面、もしこのエネルギーが犯人への復讐に向いていたらと思うと、本当に雨宮の言う通り「ぞっと」した。
 頭がいいだけに、とんでもない復讐方法を考えそうだ。
 だから、雨宮総理は事件のことを徹底的に隠蔽しようと思ったのかもしれない。
 雨宮にとって、事実を知るということが、どれほどの意味を持つのか、総理は見越していたんだ。

 夕食後、ソファでニュースを見る雨宮の背中を眺めて、ぼんやりとそんなことを考えた。
 画面には一昨日の総理の辞任表明会見の様子が流れている。この総理の孫が、ここでこんなふうに寛いでいるなんて、誰にも想像できないだろうな。
 雨宮総理自身、目の前で両親を惨殺された孫が、17歳になって2008年にいるなんて、想像すらしていない。
「これ、こいつが次の総理になる」
 雨宮がふいに画面を指差した先には、今回はあまり注目されていない60代の議員が映っていた。
「次は北林将岱じゃないのか?」
 マスコミは北林が有力だと報道してるし、誰が見ても北林に決まったも同然だ。けれど、雨宮は小さく首を振った。
「相沢も言ってたけど、俺その人知らなかったんだ。それでネットとか図書館とかで調べてみて、現時点じゃ俺も北林が一番総理に近いと思うんだけどね」
 つまりそれは、これから何かがこいつの身に起こる、ってことか。この時点で事件に関係あると想定するのは、早すぎるだろうけど。
「総裁選から外れるってことはスキャンダル――汚職、女、あとは健康問題。おまえ、この辺の記憶ないのか?」
「ないっていうか、じいさんがテレビとか一切見せてくれなかったんだ。今考えると、親が死んだことを俺に知られないようにしてたんだと思うけど、そのおかげで世の中で何が起こってるのか、さっぱり入ってこなかった。小学校上がるまでそんな状態だったかな」
「やりすぎじゃねーか?」
 常識的に答えながらも、やっぱり、と思った。どんなことをしてでも、事実を知られてはならない。失った記憶を甦らせてはならないと、総理は考えていたんだろう。
「じいさんには、それしか出来なかったんだと思う。総理を辞任しても2年くらい議員のままだったから、忙しかったんだ。俺を守るためには、できるだけ俺の耳に情報が入らないようにすることが一番いいと思ったんだろ」
 雨宮はさらりと言う。
「そういうやり方、杉本さんみたいな人には絶対に理解できそうにないよな」
 冗談っぽく共感すると、雨宮は年相応の顔で笑った。
 17歳で、どれだけの覚悟をしてここにいるんだろう。あんな悲惨な過去を背負って、どうやってここまで笑えるようになったんだろう。
 この1週間で注文したベッドやエアコンが届いて、雨宮の部屋は俺の知らない部屋になっていた。冷蔵庫にも食料が補充してあって。俺のいない間に、この家は少しだけ姿を変えていた。
 雨宮も俺も、少し変わったのかもしれない。
「雨宮、ちょっと来て」
「何?」
 訝しげに俺を見る。
「いいから、もうちょっとこっちに来て」
 腕を引き寄せると、雨宮は少しバランスを崩してソファに手をついた。
 その瞬間を逃さずに、唇を重ねる。
 雨宮の柔らかい唇の感触とは対照的に、体が硬直していて、戸惑っているのが手に取るように分かった。
 雨宮は無理やり俺を引き剥がして、手の甲で唇を拭う。それって、女には一番ひかれる仕草なんだけど。
「な、何するんだよ」
「セックス。したくなった」
 雨宮の顔が一気に赤くなった。この前セックスする時はこんな反応しなかったのに、意識し始めてるのかな。
「おまえ、退院前に病院抜け出して来たくせに、何言ってるんだよっ。傷口開いたらどうするんだよっ」
「怪我してなかったら、オッケーってこと?」
「オッケーじゃねーよっ」
「だったら怪我は理由にならないだろ」
「そうじゃなくて――っ」
 黙れ、と言うかわりにもう一度キスをする。
 急に部屋が静かになって、北京オリンピックの結果を伝えるテンションの高いキャスターの声が妙に耳に響いた。
 緊張している唇の間から、無理やり舌を滑り込ませると、雨宮の体がビクッと震えた。
 ゆっくりと口内を犯しながら、雨宮の体に手を回す。それでも雨宮は、この前と同じように抵抗しない。キスに弱いのはこの前わかったけど、それだけで普通はこんなふうに身を任せないだろ。
 俺を好きだと認めてないくせに、何を思ってるんだろう。
「……はぁっ」
 雨宮から漏れた息が、艶っぽく響いた。
 そっと顔を離すと、17歳にしては色っぽい目で俺を見つめる。
 自覚なんてないんだろうけど、好きでもないと言い張る男にそんな顔する方が残酷だ。思わずその目にキスをして、Tシャツの裾から手を滑り込ませた。
 雨宮の体が一瞬緊張する。その緊張をほぐすように、また深いキスを繰り返すと、俺に体を預けるように寄りかかってきた。
「……やっぱり、ガマンできそうにない」
 耳元で囁くと、雨宮は真っ赤になりながら俺の鎖骨辺りを見つめて、
「傷、開いても知らねーから……」

 俺は、たぶん相当、こいつに惹かれてる。