始まりの日

赦罪 - 2

尾形澄人

 2回目だ。
 朝食の後、共有スペースで携帯に電源を入れると、着信通知が2件あった。1件は科捜研から、そして、問題のもう1件は、雨宮から午前4時に。

 入院して6日目。あと3~4日で退院だと言われた。
 その間、雨宮は俺の意識が戻った時に来ただけで、その後は宣言どおり一度も来ていない。昼間に電話しても出ないのに、雨宮からは、なぜか明け方、着信通知がある。
 夜中に急に寂しくなってかけてきた、とか?
 あんな事件の後だから、そうだったとしてもおかしくないし、俺を頼ってくれたなら、それに応えてやりたい。けれど、こっちから電話してもいつも留守電になってしまう。メッセージを入れても、メールで返事が返ってくるだけだ。それも、いつも「なんでもない。そっちこそお大事に」とかいう素っ気無いもので、さすがに俺も呆れた。

 雨宮は、他人に頼ることを知らない。
 取引なしで雨宮のために何かしてやりたいと思っている人間が、ここにいるのに。

「そっか……」

 手繰り寄せた答えに、思わず、呟いた。

 たぶん、俺は雨宮を「追っている」んだ。
 あいつは何があっても、誰かに自分を預けるなんてことはしない。
 いつも自分で考えて、行動して、何かを手に入れていく。
 金銭面や物理面はともかく、精神的に誰かに頼ることを知らないから。だから、雨宮は絶対に俺を「追う」ことはない。
 そう考えると、俺の意識が戻ったときに雨宮が駆けつけたのが、嘘みたいだ。
 雨宮が俺を好きなのは、間違いないはずだけど、さすがに――――。

「焦るだろ……」
 俺の手の届かないところに行ってしまいそうで。

 けれども、結局「23日か24日に退院する」とだけメールを送って、携帯の電源を切った。
 たぶん、返事は夜にならないと届かない。

 今すぐにでも雨宮に会いに行きたい衝動を押さえて、病室に戻った。

雨宮陽生

『中華街発砲事件暴力団幹部を再逮捕』
 昼過ぎ、日比谷公園のベンチに座って、コンビニで買ったおにぎりを食べながら新聞を眺めた。
 午前中から日比谷図書館で雑誌や新聞を読みあさってたんだけど、この新聞だけは誰かが独占してるみたいで読めなかった。それで、仕方なくコンビニで買って目を通すことにした。
 相変わらず暑いけど、今日は曇りで直射日光が当たらないだけ、まだマシか。
 この事件の記事は、杉本さんに聞いたほうが正確で詳しい情報が入るから流し読み。それよりも、政治欄の方が気になった。じいさんの動き、北林将岱きたばやししょうだい や次期総裁候補と呼ばれている人たち、父さんに関わっていた人たちの動向。
 俺にはこんな風にメディアから情報を得ることしかできない。
 それでも、何かしていないと落ちつかなくて、少しでも父さんと母さんが殺された理由を知りたくて、毎日図書館に入り浸っているんだけど。
 だけど、両親が殺された本当の理由を知ったところで、俺の記憶が消えるわけじゃない。乗り越えられるわけでもない。たぶん一生俺に付きまとって、思い出すたびに俺の心を黒くする。
 ただ、はけ口が欲しいだけなのかもしれない。
 自分の中で整理の付かない、向ける場所のない哀しみとか憤りを、どこかにぶつけたい。
 犯人がどんな理不尽な言い訳を言ったとしても―――。

 残りのおにぎりを口に放り込んで新聞の政治欄を開いたとき、誰かが俺の前で立ち止まった。
 見上げると、驚いた顔だけをこっちに向けた中年オヤジが、俺を見下ろしていた。
「君、確か雨宮雅臣氏の……」
「あぁ……どうも。教え子です」
 足利さん、だったっけ。杉本さんの同僚だ。麻布で俺をあの家から連れ出した人。
 あの時は動揺しまくってたから、なに話したかなんて覚えてないけど、父さんと母さんが殺された現場にいて、尾形が撃たれた横浜の現場にもいたのに、尾形や杉本さんの頼みを聞いて俺のことを報告しないでいてくれた刑事だと、杉本さんが教えてくれた。
 警視庁の目と鼻の先とは言え、まさかまた会うなんて思わなかった。まずかったかな。
「新聞なんて読んでるのか。感心だねぇ」
 足利さんは垂れ気味の目を細めて、呑気にそんなことを言った。
「はぁ」
「こんなところにいたら、一課の連中に見つかっちまうぞ」
 そう言いながら、なぜか俺の隣に腰を下ろして、背もたれに大げさなくらい寄りかかって足を組んだ。
 この人、なに考えてるんだろ。俺のことを上に報告しなかったんだから、敵ってわけじゃないんだろうけど……。
「あの、何か用ですか?」
 出来るだけ丁寧に、嫌な感じにならないように聞くと、
「ん? いや、特に用はないが……」
 足利さんは、思い出すように曇った空を見上げて、それから一言。
「……君、教え子じゃないんだろ?」
 さすがに、こんな嘘はバレてるか。それとも、かまかけられてるだけかな。
「教え子じゃなかったら、なんですか?」
「そうだなぁ……血縁関係、ってところかな」
 多少ためらうそぶりを見せながらも、あっさりとその単語を口にした。
 驚いた。
 まさか、俺が4歳の雨宮陽生と同一人物だと見越しているとか?
「ってことは、親戚とかですか?」
 しらばっくれてみると、足利さんは自信たっぷりに、にんまりと笑った。
「いや、もっと近いな」
 なにをもって、そんなふうに言うんだろう。
「……えーと、ただの教え子、なんですけど」
 あらぬ誤解を受けて戸惑ってます、という演技をすると、足利さんは「ふーん」と気のない返事をした。
 どっちにしても、自分から正体を言うのは得策じゃないし、本当の言ったところで、どう思われるかわからない。下手したら、利用される可能性だってある。
 俺がタイムスリップした、という事実は、俺の大事なカードの1つだ。そう簡単に他人にいえない。
「睡眠不足?」
「は?」
 急に話がまったく違う方にいって、思わずきょとんとしてしまった。
「目の下、クマができてるぞ」
 少しだけ俺の顔を覗くようなそぶりをして、そう言った。
「あぁ……忙しくて」
 本当は事件以来眠れない日が続いていたけど、ややこしくなりそうだから適当に嘘をつくと、足利さんは「へぇ」と素っ気無く返事をして、ぼんやりと景色を眺めた。
 自分から聞いておいて、特に興味もないみたいに。
 けれども、気まずくもない、穏やかにも感じる沈黙が少しだけ続いた。
 こういうふうに、黙って隣に座られても居心地悪く感じない人って、初めてだ。空気みたいな存在とも違う、その人が持つ独特の存在感っていうか。

 それから足利さんは、やんわりと口を開いた。
「雨、降るかなぁ。ほら、西の方が暗い」
 ああ、確かに。
 足利さんの視線をたどると、どんよりとした灰色の雲がビルに迫るように立ち込めていた。
 こんな風に遠くの景色が見える公園だったんだと、今さらながら気付いた。
「雨宮総理は君に優しい?」
「い……いや、会ったことないんで……」
 あ、危ねぇ――――っ! なんだ、この人!?
 思わず素で答えそうになったしっ。
 冷静に考えると、安易な落とし方だ。こんなの普段なら、絶対にひっかからないのに、このオヤジの呑気さにやられた。
「ふーん」
 ニヤニヤと俺の心境を見透かすような笑みを浮かべて、のそっと立ち上がる。
「まぁ、また偶然会うことがあったら、その時にでも教えてくれよ。こういうの、縁だろ?」
「ははは……」
 笑ってごまかすしかないって、こういう時に言うんだ……。
「じゃぁな」
 足利さんは右手を軽く挙げて、スタスタと警視庁の方に向かって歩いていった。
 あのオヤジ、心臓に悪い……。

杉本浩介

 すっかり日が暮れてから報告書と調書をドサッと足利さんのデスクに積み上げると、足利さんはその高さ30センチの書類を見てげんなりした。
「これ、読まなくてもいい?」
 冗談には聞こえない口調で言う。
「さあ。うちの分は俺がチェックしましたけど、神奈川県警の分は知りませんよ」
 苦笑して答えると、足利さんは溜め息をついた。
「警視庁じゃない分、厄介そうだな……日比野~! あれ、日比野はいないのか」
 足利さんの呑気な声が、だだっ広い捜査一課のオフィスに響いた。

 中華街の一件から1週間が過ぎた。
 公務執行妨害の現行犯で逮捕した深川を、脅迫と現金輸送車強盗未遂で再逮捕。この段階にくると、とにかく書類作成が多い。取調べの調書から裏づけ捜査の報告書、送検するための書類。足利さんはそれをまとめて松下理事官に渡さなければならないから、チェックするのが大変だ。
「そういえば、田口真奈美殺害の担当、2係なんだって?」
 思い出したように足利さんが聞いてきた。
「はい、さっき課長に言われましたよ。結局、証拠が集まってないですからね」
 深川も黒田も防衛大臣脅迫と田口真奈美の殺害の一連の事件は否認したままだ。確固たる証拠が全くないから、重要参考人にすらできない。結局、俺が統括する2係が再捜査することになった。
 足利さんは、予想以上に納得したように頷いた。
「まぁ、あの事件は、俺も変だと思ってたんだよなぁ。捜査しなおしたら、絶対に何か出てくるな」
「どうしてですか?」
 足利さんは当然とばかりに。
「勘」
 きっぱりと言って、缶コーヒーを口に運んだ。
 刑事の勘、ってやつだ。俺も、色々な現場に言って、具体的に何がおかしいのかは分からなくても、雰囲気でなんとなく気になることはある。
 霊感や超能力みたいなものじゃなくて、経験からくる直感というのはあると思う。もしかしたら、尾形のプロファイリングはそういう直感を、具体的に証明しているだけなのかもしれない。だから、説得力がある。
 まぁ、雨宮のタイムスリップが本当なら、霊感や超能力も否定はできないけれど。
 そんなことを考えてたとき、足利さんが思い出したように口を開いた。
「あぁ、そういえば、あの高校生に会ったぞ。3日前、偶然だけど」
「え?」
 思わず、ギクリと顔が強張った。
 タイミングがよすぎるだろ。
「日比谷公園で新聞読んでたよ。あの年で、感心だよなぁ」
「そうなんですか……」
 雨宮のことは、上には報告していない。麻布の時に雨宮を見たのは足利さんと日比野だけで、深川逮捕の時も日比野と足利さん以外の人間には、事件のどさくさに紛れて逃げたみたいだと報告していた。庇ってくれた尾形を置いて逃げた薄情な少年だとは思われているが、共犯者とは思われていないのが不幸中の幸いだ。
「あいつ、本当に雨宮雅臣のただの教え子なのか?」
「あぁ……そうらしいです」
 足利さんには、尾形の知り合いで雨宮雅臣の教え子ってことにしてあるが、さすがにただの教え子があんな現場にいたら、無理があるだろうな。
 だからと言って、本当のことを話してもただの馬鹿だと思われかねない。
 けれども、あえて聞いてくるということは、足利さんが何か掴んでいるのかもしれない。それはそれで、かなり厄介というか、困るというか、本当のことを言ってしまったほうが得策かもしれない。
「……足利さん、何か知ってるんですか?」
 隣のデスクの椅子を引っ張ってきて、足利さんの隣に座って小声で聞くと、それに調子を合わせるように、足利さんが肩を俺に寄せてきた。
「あの高校生、もしかして……」
 そこで、小さな間を作る。この間がやたらとプレシャーをかけるって、わかっててやってるんだろうか。
ゴクッと思わず唾を飲んだ。
「雨宮総理の隠し子?」
「…………」
 思わず絶句した。
 期待を裏切られたというか、いや、よく裏切ってくれたと言うべきか。この人が俺の想像通りの反応をしないことは、よく知っていたじゃないか。
「どうしてそう思ったんですか」
 とりあえず理由を聞いてみると、足利さんは難しい顔をして。
「だから、勘だよ。顔もどことなく雨宮雅臣と似てるんだよなぁ」
 ……さすがですよ、足利さん。
「本人に聞いたんですか?」
「カマかけてみたけど、わからなかった。あの子、実は相当頭いいだろ。尾形にも問い詰めたんだけどなぁ」
 言いながら姿勢を戻して、缶コーヒーを口に運んでからカラなのに気付いて、不機嫌そうにデスクに空き缶を置く。
「え、尾形に会いに行ったんですか?」
 足利さんが尾形をそこまで気にかけていたとは思わなかった。
「ああ昨日、一応見舞いにな。あいつ死にかけたってのに、相変わらずだよなぁ」
 何がどう相変わらずなのかはわからないが、とりあえず元気だったと言いたいみたいだ。
「科捜研なんかにいないで、一課に来てくれりゃぁいいのに。あいつ、絶対にSだろ」
 にんまりと目尻を下げて、どこか楽しそうに笑った。
 尾形、いったい何を話したんだ……。
 チラリと足利さんの方を見ると、漫画でも読むような雰囲気で報告書に目を通していた。
 警視庁捜査一課1係長・足利警部、確か今年で43歳だったか。
 どうも掴みどころのない人間だ。