始まりの日

赦罪 - 1

2008年8月 雨宮陽生あまみやはるき

 待ち合わせの19時の5分前。
 抹茶フラペチーノを注文して、比較的客のいない一角に座った。そして、19時10分を過ぎた頃に相沢司が店に入ってくるのが見えた。
 遅刻してきたのに急ぐそぶりもなければ、真夏の屋外をスーツで歩いてきたとは思えない涼しい顔で俺を見つけると、無駄のない足取りで歩み寄ってきた。
「遅くなった。ここでいい?」
「平気。誰も信じないだろうし」
 俺の答えを聞くと、相沢は小さく頷いて注文カウンターに行った。

 医者になろう。そう決めたら、やることが見えてきた。
 国家資格を取得するには、まずは戸籍が必要だ。
 それで、俺なりに調べて、いくつか方法を見つけた。
 嘘をついて出生届か就籍届を出す、ホームレスから買う、あとは相沢に頼む。
 まずは相沢に頼むのが一番手っ取り早いような気がした。聞きたいこともあったし。それで電話して呼び出されたのが、有楽町のスターバックスだった。

 俺の正面に座ってテーブルに携帯を置くと、相沢は「それで」といつものように穏やかに微笑んだ。
「話っていうのは?」
「その前にさ、一昨日、俺と尾形を助けてくれたじゃん。あれの礼、言ってないから……」
 あの時、相沢たちが乗り込んできてなかったら、確実に殺されてた。あの中国人なら、何のためらいもなく引き金を引いたと思う。
「そんなことか」
 相沢は、本当に言葉通りの口調で言って、マイペースにアイスコーヒーを飲む。
「結果的に、君たちを助けたことになっただけだ。本当はこっちが礼をいいたいくらいだね」
 ああ、やっぱり。
「……尾形のあとつけてたんだ」
 だからあんなにタイミングよく店に入ってきたんだろうなとは思っていた。けれど、相沢は、
「違うよ。君を尾行していたんだ」
「俺? なんで?」
「身元不明の人間が、こんな事件に絡んでるんだからね」
 警視庁公安部でも調べられてない、つまり俺は相沢にとっても警察にとってもかなり怪しい人物だったわけか。ってことは。
「じゃぁ、まだ俺のこと張ってるわけ?」
 その問いに、相沢は小さく微笑んだだけで、答えなかった。
 でも、Yesなんだと思う。だから相沢は俺の急な呼び出しに応えた。結局、相沢も俺も尾形も、お互い利用しあってこの事件を追っている。そう思うと、どこか不思議な見えない糸を感じた。
「で、そろそろ本題に入ってもらいたいんだけど」
 相沢があくまでも穏やかな口調で話を促した。この顔と冷めた態度で右翼や左翼、暴力団幹部なんかを相手にしていると思うと、かなり面白い。
 なぜかリアルに想像できて、思わず笑いそうになるのをこらえて、
「聞きたいことと、頼みたいことがある」
「内容によるね。引き受けるかどうかは、聞いてから判断する」
 もともと相沢が無条件で頼みを聞いてくれる奴だとは思ってないけど。
「わかった。じゃぁ、単刀直入に、頼みたいことから。俺の戸籍がほしい」
 俺の言葉に、相沢のそれまで微動だにしなかった眉が、わずかに動いた。
「……戸籍?」
「俺には、戸籍がない。相沢のいるところは、潜入捜査で架空の人物を作り出すんだろ? つまり、戸籍を作ることも、簡単だろうと思って」
 そう言うと、相沢はくすっと小さく笑った。嘲笑じゃない……ような気がするけど、真意はよくわからない。
「本当に面白いね、君。どうして戸籍がないの? 別の戸籍が必要、の間違いだろ」
 いくら公安で調べられなかったと言っても、さすがに無戸籍の人間だとは思ってなかったんだろうな。
「俺の正体、教えてやるよ」
 これが、交換条件。
「俺の本名、雨宮陽生っていうんだ。別に信じなくてもいいよ。でも俺、2021年からタイムスリップして来ちゃったみたいでさ。この世にいないはずの人間に、身元なんてあるわけないだろ?」
 何回説明しても、やっぱり笑っちゃう。尾形はよくこんなこと信じてくれたよな。
 けれども相沢は、こんな突拍子もない聞いても眉ひとつ動かさない。まるで俺の話なんて聞いてないみたいだ。もしかしたら、あまりにも突拍子もないから、冗談だと思ってるのかもしれない。
「気が付いたら2008年にいたんだ。だから帰る方法がわからない。この分だと、俺は一生こっちで生きていくと思うんだ。そしたらやっぱり戸籍があったほうがいいと思って調べたんだけど、他の方法ってかなり面倒だろ。買うとしたら名前が変わるし、申請するにしても、誰もタイムスリップしたなんで信じないから、誰かに嘘をつかせなきゃいけない。そういうのが、嫌なんだよ」
 本当のことを言ったのは、嘘をついても相沢には見破られると思ったから。だったら、嘘だと思われても本当のことを言ったほうが、はるかに楽だ。
 とはいっても、ここまで無反応だとバカにされてるような気がしてくる。
 相沢はしばらく何も言わずに目を伏せ、チラリとテーブルの上の携帯電話のデジタル時計を見たみたいだった。それから、ゆっくりと口を開いた。
「……それで、俺が偽造するのは問題ないのか」
 まるで俺のタイプスリップ発言なんて聞いてなかったみたいだ。
 スルーされた、ってことかな。
「普段からやってるんだろ? 盗聴とか盗撮とか、もっと汚い隠蔽とか」
 暗に今回の事件のことを臭わせてみたけど、相沢はまるで空気でも見るように俺を見たまま黙りこんだ。
 何を考えてるのかわからない。もしかしたら俺を疎ましく思っているかもしれない。今の言葉を脅しと受けとめられたかもしれないし、反対に面白い奴だと思ったかもしれない。
 ただ言えることは、どんなに無表情だったとしても、感情がそこにあるということだ。あの冷たい目をした殺し屋でも、俺のたった一言にひるんだみたいに。
 そんなことを考えていると、相沢が小さく息をついた。
「なるほど。君が羨ましいね」
「……は?」
 羨ましいって、どこが?
 いきなり知らない世界に投げ出された人間が、どうして羨ましいんだよ。同情するところだろ、普通。
 俺のその疑問を読み取ったのか、相沢が続ける。
「過去に戻って、真実を知れた。そのおかげで犯人が逮捕されたということだろ」
 普段と何も変わらない口調。だけど言葉の本質に目を向けると、相沢の本心が見えた気がした。
 俺の両親が殺されたことについては、同情すらしない。犯人を逮捕するべき警察の人間が、それを羨ましいと言う。
 つまりそれは、自分も同じ状況だから?
 それも、犯人が捕まっていない……?
「……もしかして、相沢も親を殺された、とか?」
 探るように核心を聞くと、相沢はまた何も言わずに口角を上げた。
 相沢の表情からは俺の憶測が正しいのか、間違っているのかわからない。ただ、これ以上聞いちゃいけないような気がした。知ったところで俺には何もできないし、俺だって親が殺されたことを探られたら嫌だ。
「ごめん……」
 小さく呟くと、相沢はクスリと笑った。そして、話を戻す。
「つまり、君は未来を知っているってことだね」
「内容によるけどね。っていうか、あんた俺のタイムスリップ発言、信じてんの?」
「さあね。でも、1つだけ君の知っている未来を聞きたい。雨宮総理の次は、誰が総理になった?」
 そうか、と思った。
 相沢がそれを聞いてくるとは思ってなかったけど、俺がタイムスリップしたか確かめるために、こんなこと聞くような、せこい奴じゃないから。
 っていうことはつまり、今回の事件には「総理大臣」っていうキーワードが絡んでいる。相沢が知りたがるってことは、そう言うことだ。
「川端晋太郎」
 目を見て名前だけ言う。相沢はゆっくりと瞬きをして、頷いた。
「わかった。戸籍はなんとかする。苗字は雨宮のまま?」
「え? 雨宮がいいけど」
 あまりにも当然のように引き受けられて拍子抜けしたけど、相沢は早口に説明を続けた。
「2週間程度で手に入るだろう。この前あげた名刺のメールアドレスにメール送っておいて。必要事項を連絡するから」
 事務的に言って、アイスコーヒーをひと口飲む。
「あの、ありがとう」
 とりあえず礼をすると、相沢はチラリと俺を見て微笑んだ。
 あれ? 今、普通に笑わなかったか?
 一瞬だったけど、いつもの上辺だけの微笑みじゃなかったような気がした。けれど、もういつもの顔に戻っていた。
「で、もう1つあるんだろ?」
「ああ。一昨日逮捕した中国人、他に誰を殺したか供述してる? 供述してたら、誰を殺したか知りたい」
 相沢は意外にもすんなりと答えた。
「口が堅いからね。3月のOL、田口真奈美の殺害は否認している」
 殺してない? じゃぁ誰が、殺したんだ?
「じゃ、鹿島弘一は?」
 たぶん俺の口からその名前が出てくることを、予想してなかったんだと思う、相沢が一瞬だけ間を空けた。
「認めたよ」
「やっぱり。鹿島弘一って、生きてたら今度の総裁選に出るような人だろ」
 杉本さんから自殺した鹿島のことを聞いて、ネットとかで調べたからだいたいの素性はわかっていた。与党の大物政治家で、過去に総裁選にも出馬したことがある。まぁ、その時はじいさんが当選したわけだけど。
 総理っていう肩書きにすべての糸が繋がっている気がした。でも単純な糸じゃない。もっと別の何かが複雑に絡み付いている。
 相沢は何も言わずに、じっと俺の目を見ていた。俺の心を読もうとしているみたいにも見えたけど、ただ見ているだけのようにも見える。
 それから、思いついたように口を開いた。
「北林将岱という政治家を、知ってるか?」
 こいつから情報が出てくる時は、重要なキーワードだ。
「北林?」
「次期総裁に、一番近いと言われている政治家だ。今の内閣房長官だよ」
 俺の知っている次の総理は北林なんて奴じゃない。
 しかもそんな大物の名前なのに聞いたことないってことは、単に辞退や落選じゃなくて、これから何かの理由で引退するか、死ぬかってことになる。
 さっきの次期総理のことといい、相沢は何を知ろうとしているんだろう。
 今回の事件に関係あるのか、それとも別の事件なのか。
 聞いてみたけど、相沢はそれ以上のことを教えてくれなかった。

尾形澄人おがた すみひと

「なんだ、思ったより元気そうだな」
 病院のベッドに座って雑誌を読んでいると、杉本さんの声がして顔を上げた。
「一時はマジで死ぬかと思ったけど。あ、コレは雨宮にはナイショな」
 雑誌をテーブルに伏せながら言うと、杉本さんは呆れたように笑って、手にしていた紙袋を俺の前に置いた。
「はい、土産」
 紙袋の中身をのぞくと、「Ke:miyu」のプリンが入っていた。
「さすが、杉本さん」
 俺の好みをわかってる。
「暑いけど、屋上にでも行くか」
 そう言いながら、杉本さんは俺の本とプリンの紙袋を持った。
 屋上、つまり人のいないところでしたい話があるということなんだろう。
 マスコミは中華街の発砲事件を大々的に報道して、俺は犯人グループの1人に撃たれて名誉の負傷を追った捜査員ということになっていたから、病院じゃちょっとした有名人で、聞き耳を立てる人も多い。

 入院して4日目、俺は松葉杖をつけば難なく歩けるくらいに回復していた。
 杉本さんが開けてくれた屋上のドアを抜け、強い日差しに目を細めた。
 数基のベンチがあるだけの、飾り気のない屋上。いくら東京湾とベイブリッジを望む最高の景色でも、真夏の昼間にこんなところにいるのは、日焼けしたい奴だけだろうな。実際、ここで日焼けしたら、病人も一瞬で健康体に見えるようになりそうだけど。
「深川の勾留延長が決まったよ」
 並んでベンチに座ると、杉本さんはそう切り出した。
「へぇ。意外としぶといな。何隠してんの?」
 紙袋からプリンとスプーンを出す。保冷剤のおかげで、ひんやりと冷たいのが嬉しい。
「3月の防衛大臣脅迫と田口真奈美殺害」
 防衛大臣を辞任しろと総理に脅迫状を送りつけて、辞任させなかったから予告どおりOLを殺した、今回の一連の事件の、始まりだ。
「黙秘? 否認?」
 プリンを口に運びながら聞くと、杉本さんは呆れたように顔をしかめた。
「さあなぁ。ある日、夢で神様がその情報を教えてくれたんだと。他の共犯者は、脅迫事件自体知らないといっている」
 つまり深川は、夢の中で神様が「防衛大臣が脅迫されて田口真奈美が殺された」と教えてくれて、それを利用して今回の脅迫をした、と自供をしてるってことか。下手に嘘つくよりも、そうやって非科学的な自供したほうが楽そうだ。雨宮のタイムスリップ発言よりもよっぽど信憑性があるし。
「黒田は吐いた?」
 一ノ瀬組の幹部で、田口真奈美と愛人関係の男だ。雨宮夫妻殺害時の見張り役だったことが分かっているけど、どこまで深く事件に関わっていたんだろう。
 杉本さんは本当に困ったように首を横に振った。
「だめだ。妻子が見つからないことには、奴は吐かないだろうな」
 愛人が殺されているだけに、深川に人質に取られた黒田の妻子だってあっさり殺される可能性がある、黒田はそう怯えているんだろう。まんまと深川の思い通りに動いている、ということだ。
「尾形は、田口真奈美の事件、どう思う?」
「ちゃんと捜査してないんでしょ?」
「ああ、防衛大臣の雑誌の切り抜きがナイフに突き刺さってたってことで、早々に脅迫状関連の殺人ってことに断定されたみたいだ。怨恨や強盗の線では捜査してないだろうな」
「だったら――」
 田口真奈美殺害の調書と鑑識資料を読んだ限り、強盗はないだろう。けれど、怨恨の線は消えない。殺害方法は絞殺で、凶器が彼女の自宅にあった電気コードだった。現場にある道具で人を殺すのはプロでもやることだけど、誰にでも使える凶器だ。防衛大臣の切り抜きだって簡単に用意できる。脅迫事件のことさえ知っていれば、捜査をかく乱させるには効果的な方法だと考え付くのは容易い。
「現状だけで怨恨かプロによる計画的な犯行かは、判断できないな」
 そう結論を出すと、杉本さんはがっかりしたように空を見上げた。
 それよりも。
「気になるのは、深川が誰から雨宮夫妻殺害を依頼されたか、だ」
「そういえば雨宮もそんなこと言ってたな。一般人を脅迫しても、警察の対応は変わらないはずだから、あえて総理大臣の家族を狙うには理由があるはずだって」
「あいつも?」
 この前は吹っ切れたような顔してたけど、やっぱり両親が殺された憎しみはそう簡単に消えないものなのかもしれない。誰がなぜ殺害を依頼したのかわかれば、少しは解消されるんだろうか。
 雨宮の気持ちを考えると、呼吸が苦しくなるような気がした。
「両親が殺されたと思って13年も生きていたと考えたら、ぞっとするって言ってたよ」
 杉本さんも同じことを思っていたのかもしれない。溜め息混じりに言って、東京湾に浮かぶ船を見つめた。
 雨宮の祖父である今の総理大臣が、権力を駆使して雨宮の両親が殺されたことを隠し通した。それを正とするか悪とするかは、人それぞれかも知れない。けれども、嘘には必ずツケが回ってくる。
 空になったプリンの容器を紙袋に戻して話を戻した。
「深川も黒田も吐かないとなると、香港に行ったっきりの川井正男は?」
 黒田の妻子を人質にとっている川井も、この事件に深く関わっているはずだ。
 けれども杉本さんは首を横に振った。
「香港なんてそんなに広いわけじゃないのになぁ。まぁ、偽造パスポート使って他の国に飛んでたら、かなり厳しいだろうな」
 黒田の妻子が無事であることを祈るしかない。
「一課も調べてるだろうけど、深川の本業は殺しの請負だ。今回の強盗・脅迫事件じゃ死刑にはならないから、もし依頼主の名前を喋ったりしたら、それこそ保釈中に袋叩きで殺されて、焼かれてコンクリート詰めされて東京湾に沈む」
「具体的だな……」
「ヤクザの定番だろ。つまり、深川は絶対に口を割らない。だったら雨宮夫妻側からあたるしかない。ところが雨宮夫妻は事故死ってことになってるから、怨恨の線で聞き込みがしづらいってところか。踏んだり蹴ったりだな」
 警察が雨宮夫妻を恨んでる人間を聞き込みに回ったら、事故死から一気に「計画的ひき逃げ殺人」の噂が広がる。上層部はもちろん、雨宮に両親が殺されたことを隠しておきたい総理も、それを嫌がるだろう。
「上は早く事件を終わらせようと躍起になってる」
 言いながら、杉本さんはぐったりと太ももに肘をついて溜め息をついた。行き詰まりを感じて、俺のところに来たというのが本音なのかもしれない。
「相沢が連行した中国人は?」
「あれか……公安がお得意の秘密主義で囲ってて、何一つ情報が漏れてこない。取調べすらさせてくれないよ」
 相沢はどうして、主犯の深川じゃなく殺し屋だけを連行したんだろう。プロの殺し屋は直接依頼主とは接触せず、仲介人が入るのがセオリーだ。今回は深川が仲介人で、中国人の殺し屋は依頼人が誰なのかなんて、知らないはずだ。下手したら、深川ですら知らない可能性だってある。
 つまり、相沢は「誰に依頼されたのか」を知りたいわけじゃなく、「誰を殺したのか」ということだけを知りたいってことか?
「そういえば」
 と不意に杉本さんが体を起こした。
「相沢はおまえと松下管理官のことを知ってるみたいだったぞ」
 は?
「マジかよ……」
 戸籍でも入手しないかぎり俺と松下の関係はわからない。相沢は警察内部の人間の情報まで集めてるってことか。
「周到っつーか、疑り深いつーか……性格悪い上に悪趣味だな……」
 そう呟くと杉本さんが声を上げて笑った。
「ははは。相沢とはそんなに仲がいいのか?」
「仲がいいとかそういう関係じゃないよ。ただの元セフレ」
 杉本さんの顔が、ピクリと強張った。こういう反応って、何回見ても面白い。
「……やっぱり、そうだったのか。雨宮は知らないんだろ?」
「知ってるよ」
 あっさり答えると、杉本さんは驚いたように目を丸くした。
「おいおい……」
「意外とドロドロしてるだろ」
 ニヤリ、と笑って付け足す。
 話の濃さについていけなくなった杉本さんは、俺を睨みつけて、さっきよりもでかい溜め息をついた。