始まりの日

未来 - 30

雨宮陽生

 尾形が、起きた。
 やっと。
 心配だったわけじゃない。
 撃たれたときは、死ぬんじゃないかと思って動揺したけど、尾形は絶対に大丈夫だと、どうしてか強く思っていた。

 特急に乗ったのに、なかなか目的の駅に着かなくてイライラした。
 駅からタクシーに乗り換えて、病院に向かう。料金を払って降りて、無心で病棟へ駆けつけた。
 早く、会いたかった。
 会って、言いたことがあった。

「尾形!」
 ドアを開けて、叫ぶような声が出た。
 6人部屋の、一番ドア側のベッドで、尾形が起き上がって笑っていて、右手をひらひらとさせた。
「おはよう」
 呑気にそんなことを言う。
 心臓と呼吸を整えながら、ゆっくりとベッドの脇に歩み寄った。
「おは、よう……」
 言葉が、見つからなかった。
 尾形はそんな俺を面白そうに見た。

 言いたいことが、たくさんあったはずなのに、思い出せない。
 絶対に大丈夫だって思っていたのに、尾形の顔を見たとたん、力が抜けたような、緊張感が解けたような、自分でも意外なほど頭が真っ白になった。

「泣くなって、こんなことで」
 そう言われて、はじめて自分が涙を流していたことに気付いた。
「ほら、みんな見てる」
 大部屋にいる患者と看護師が全員、俺の方を見ていた。
「なっ―――――!」
 は、恥ずかしすぎるだろっ。
 反射的に持っていた紙袋を尾形に投げつけて、手の甲で涙を拭いながらトイレに駆け込んだ。洗面台で、汗と涙でぐちゃぐちゃになった顔を洗って、鏡を見つめた。
 目が真っ赤に腫れて、どう足掻いても言い訳できない状態だ。
 こんな顔でまたあの病室に行くのも嫌だし、だからといって、あんな大怪我した尾形を呼び出すわけにもいかないし。

「はぁ……」
 何やってるんだよ、俺は……。
 尾形に、礼を言いたかったのに。
 俺をかばって、こんな目に遭った。もし尾形があのビルに駆けつけてくれなかったら、俺は確実に死んでた。杉本さんからもそう聞いてるから。
 そして何よりも、2008年に来て最初に出会った人が、尾形で良かった。
 最初は自分勝手で強引で信用ならない奴だと思っていたけど、俺はいつの間にか尾形を信じて、尾形の言葉に巻き込まれていた。
 もし尾形がいなかったら、自分の気持ちを整理できないまま、きっとこの先何年も苦しんで生きていくことになっていたと思う。
 それが、俺の尾形に対する気持ちだ。

「おまえ、俺に会いに来たんじゃないの?」
「っ?!」
 急に背後から声がして、振り向くと尾形がトイレの入り口に寄りかかるように立ってた。
「も、もう歩いていいの?」
「歩くぐらいできる。まぁ、松葉杖必要だけど」
 ニヤリと笑って、左腕のアルミ製の杖を少し持ち上げた。それから、ゆっくりと俺に歩み寄る。
「俺よりIQ高いなんて思えねー行動だよな」
 うるさい。
「人がせっかく来てやったのに、そうゆうこと言う?」
 思わず睨みつけて言い返すと、尾形は綺麗に微笑んだ。
「そうだな」
 その余裕が無性にイライラした。俺は、こんなに混乱したのに、尾形はいつも俺の前を、悠然と歩く。
 こうやって、いつも尾形が折れる。
 俺がいなければ、尾形はこんなことにならなかったのに。
「なんで、俺を責めないんだよ」
 こんなこと聞きたかったわけじゃないのに、どうしてか、知らずに口に出ていた。
 でも、それを取り消すつもりもなくて、俺は余裕そうな笑みを崩さない尾形の目を見て、聞きなおした。
 たぶん、俺の心の底にずっとあった、理不尽さだから。
「俺は尾形の言うこと無視したのに、そのせいで死にそうな目にあったのに、なんでそんなふうに笑えるんだよ」

 誰かに責めてほしかった。
 俺のせいで父さんと母さんが死んだのだと、そう言われたほうが、ずっと楽だったんだ。
 俺のせいじゃない、そう言われる理不尽さに、ずっと耐えてきた。

 ほんのわずかな沈黙の後、尾形は、ゆっくり瞼を伏せて、それから呟くように。
「陽生をたのむ」
 え?
「そう言ったんだよ。おまえの親父」
 尾形は俺を見て、優しく、けれど少し困ったように笑った。
「血まみれでおまえを抱きながら、自分が死にそうなのに、おまえのことを心配していた」
 父さんが?
「未来がある――つまり、時間が進むってことが生きてることだとしたら、死ぬって事は、時間が止まることなんだと思う。おまえの時間は、過去に戻っても、それでも進んでいるだろ」
 ゆっくりと、けれども淀みない言葉に、どうしてか引き込まれた。
 未来があるなんて、誰もが簡単に言う台詞なのに。
「みんな、おまえの時間を止めたくなかった。雨宮から未来を奪いたくなかった。だから誰も雨宮を責めない。雨宮に未来がある限り、誰もおまえを責めない」
 俺が生きている限り、責めない。

 俺は、守られたことに対する負い目しか感じてなかった。
 何もできずに、ただ守られた自分が、ひどく情けないと思った。

 涙が溢れた。

 こんな風に尾形の言葉で涙を流すのは、2度目だ。
 あの時は、自分を責めて、悔しくて、こらえきれずに泣いた。
 けれども今は、違う。  他の誰でもない「尾形」が、俺を許すと言い、俺の未来を奪いたくないと言ったから。

「俺、尾形に会えて、よかった……」
 涙で鼻声になったけど、尾形に充分届いたみたいで、尾形はニヤリと意地悪そうな笑みを浮かべた。
「当たり前だろ」
 父さんと、母さんが尾形に引き合わせてくれたような気がした。
 ここに来たのは、たぶん尾形に会うため。
「尾形がいなかったら、尾形がいなくなったらって考えたら――――」
 言葉が出なかった。
 どうしようもなく哀しくて、心が張り裂けそうな気がした。
「わかってるから、泣くな」
 そっと腕を引き寄せられた。
 尾形の肩に額を埋めて、またその温かさを感じた。

 2年前、月本が35歳の誕生日を迎えた日、まだ独身の月本にどうして結婚しないのか聞いたことがあった。
「相手を大切に思っている、それだけで十分なんですよ」
 いつも冷たい雰囲気の月本が、その時だけはなぜか柔らかく見えた。
 その答えは俺が納得できるものじゃなかったけど、月本が彼女のことを思っているんだとわかったから、それ以上聞かないことにした。でも、月本は何を思ったのか「それに」と付け足した。
「その人に出会えたこと、一緒にいられるということが、どれほど奇跡的で不思議なことなのかを考えると、結婚という枠にはめることができないんです」
 その時は、月本の言う「奇跡」がどうも安っぽく感じた。それに結婚を「枠」と考えること自体、理解できなかった。
「……なにクサイこと言ってるんだよ」
 適当にそう返すと、月本は意味深に笑った。
「そのうち、あなたにもわかりますよ」
 つまり、「そのうち」ってのはたぶん今のことだ。

 好きか嫌いかと聞かれれば、俺は尾形が好きなんだと思う。
 でも恋愛感情かって聞かれると、わからない。
 ただ、尾形に会えたことは、ものすごい奇跡なんだと思う。そもそもタイムスリップしたこと自体、ありえない奇跡なんだし。

「やっぱり、付き合うとかそういう枠にはめるの、納得できないんだけど」
 好きだから付き合うっていう、そんな単純な気持ちじゃないような気がする。
 尾形は俺の顔を離して、あからさまに意味不明って感じで睨んだ。
「は?」
「だから、好きとか付き合うとかじゃなくて、とりあえず大事に思ってるってことでいい?」
 まだ涙が残った目でニカッと笑って尾形から離れると、尾形はまじまじと俺を見た。
「とりあえずって……おまえまさか、俺が死にそうになってもまだ好きだって認めてないとか?」
「ははは、認めるもなにも、ただの友達だろ。それに、好きとかそんなこと、どうでもいいし」
 俺にとって尾形が大切な存在であることに変わりはない。
 尾形は呆れたように溜め息をついた。
「まあ、そのうち好きで好きでたまりませんって言わせてやるからいいけど」
「んなこと恥ずかしくて言えるかよ」
 思わず頬を引きつらせると、尾形がニヤリと意地悪に笑った。
「恥ずかしいなんて考えてられないくらい、感じてよがってたくせに」
「あ、あんなの生理現しょ……って――!」
 言いかけて、気付いた。
 ここは公共の場、病院のトイレだ。
 慌てて周りを見回して、ちょうどトイレに入ってきた大学生くらいの患者と目があった。一瞬だけ驚いたように俺を見て、なんとも言えない微妙な笑み作って出て行った。
 ヤバイ。絶対に、聞かれた……。しかも、あいつ尾形と同じ部屋の奴だ。
「あーあ、聞かれたな。ま、気にするな」
「気にするだろっ、普通!」
 尾形は面白そうに笑って、焦って怒鳴る俺を置いて松葉杖を器用に突いてトイレを出て行く。
 その背中を見て、少しだけ安心した。
 だから。
「俺、もう絶対に見舞いに来ねー」