始まりの日

未来 - 27

杉本浩介

『突にゅ――』
『深川は月華樓じゃない! 大桟橋だ!!』
 特殊捜査班SITの指揮官の命令を遮るように、大音量の怒鳴り声がイヤホンの耳に響いた。
 観光客にまぎれた刑事の動きが、一斉に止まった。
『松下だ。尾形、分かるように説明しろ』
 落ち着いた声が聞こえた。
『大桟橋入り口にある「月の華」に深川がいる! 早く、応援頼む!』
 おいおい、そんな説明じゃ、俺しか信じないだろ!
「杉本です、俺が行きます!」
 袖口のマイクに言うと同時に、体が動いていた。中華食材の店を飛び出て、観光客の群れに飛び込んだ。
 車は渋滞で使えない。ここから大桟橋まで走って5分はかかる。
「くそっ、間に合うか?!」
『こちら松下、了解。A班とC班は全員大桟橋に向かえ。場所は中区海岸通1-1-4、港湾合同庁舎の向かいのビルだ』
 中華街の賑わいとは別世界みたいな落ち着いた指示を聞きながら、人ごみを掻き分けて、とにかく走った。
『尾形、中の様子を報告しろ』
 松下さんの指示のあと、10秒近くたっても答える声がない。どういうことだろう。
 答えられる状況じゃないのか、それとも無線が外れているのか。
 大通りを渡って、海の方へ走るにつれ、また観光客が増えて、スクランブル交差点のあたりがひどくごった返しているのが見えた。
 その時。
『パン! パン!』
 は――? 銃声?
「尾形?!」
 嫌な予感がした。
『パン! ガタガタ!』
 また、銃声と、今度は家具か何かが倒れる音と雑音が盛大に鳴る。
「おじさん! 『月の華』ってどこ?!」
 交差点の手前の街路樹の下にいた駐車場案内の看板を持ったオヤジに怒鳴るように聞くと、「そこネ」と交差点を挟んで向かい側ビルを指差した。
 渋滞で動かない車列の合間を信号無視して渡っている観光客にまざって、俺も車の隙間を走り抜け、そのまま地下へ続く階段を駆け降りた。
 ドアが開けっ放しになっていて、目の前にでっかい屏風が立っていた。それを回り込んで、絶句した。

 雨宮の横に尾形が座り込んでいて、その床に水溜りのように広がっているのは――血だ。
「――尾形!」
 背後に誰かが入ってくるのがわかった。振り向いて指示を出す。
「日比野! 救急車!!」
「はいっ!」
 万が一の時のために近くに待機させてあるから、すぐに来るはずだ。雨宮と尾形の脇にしゃがんで、傷口を確認した。左太ももの内側から大量の出血。たぶん動脈がやられてる。
「三沢、松下さんに状況報告して周囲に非常線張れ!」
「わかりました!」
「他の人間は深川を押さえろっ!」
「はい!」
 後から駆けつけた部下に指示を出しながら、尾形を仰向けに寝かせた。
 雨宮はあまりのショックに、呆然としてるみたいだ。下手に動かれるよりも安全かもしれない。
「で、尾形、俺はどうすればいい!?」
「……はは、俺が指示するの?」
 眉間に皺を寄せて、口だけで笑う。冗談言ってる暇はない。
「医者だろう!」
 ぴしゃり、と怒鳴りつけると、また皮肉気に笑って、
「血、止めて。足高く持ち上げて、ネクタイとかで止血してよ。それくらい警察学校で習っただろ?」
「よし、雨宮、手をかしてくれ」
 ネクタイを解きながら雨宮を見ると、瞬きもせずに尾形の傷から広がる血だまりをじっと見つめていた。
「雨宮!!」
 耳元で大声で呼ぶと、肩を震わせて振り向いた。
「あ…………俺……」
 雨宮がどんなに傷ついていようが、今は尾形の手当てが最優先だ。ここで尾形に万が一のことがあったら、それこそ雨宮は立ち直れないだろう。
「しっかりしろ! 左脚持ち上げてくれ!」
 怒鳴りつけると、雨宮は震える手で尾形の足を高く持ち上げた。
 傷の上にネクタイを巻いて、強引に引っ張って縛る。尾形が変な冗談を言って、雨宮を安心させようとしているのが痛々しかった。
「救急車2分で来ます!」
「日比野は尾形に付き添って、救急車誘導してくれ」
 ここは日比野にまかせて、まだ奥にいるはずの深川を押さえたほうがいい。
 立ち上がると、尾形がほんの少し申し訳なさそうに俺を見上げた。それに小さく笑って応えて、奥の部屋に進んだ。
 予想外に広い部屋に、足利さんとうちの刑事が深川と女を、そして相沢率いる公安刑事5人が中国人の殺し屋を捕らえていた。
 バカラ賭博をする場所でもあったんだろう、バカラ台が3台、ルーレットが1台均等に配置されていて、その台の上に無線機材が詰まれている。深川たちはとっくに腹をくくったようで、女だけが若い刑事にわめきたてている中、バカラ台を埋めるように立っいる20人近くの刑事が、5人の公安を睨みつけていた。
 つまり、険悪なムードというやつだ。
「公安さぁん、うちの手柄、横取りしないでくださいよ」
 足利さんがいつもの間延びした口調で言う。バカラ台を挟んだ向こう側で、相沢があいかわらず柔らかな笑みを浮かべていた。
「深川に最初に目をつけていたのは、うちですよ。尾形からそう聞いていませんか? そうですよね、杉本さん」
 足利さんが、さすがに驚いたように目を見開いた。
「そうなのか?」
 自分から情報をもらしたことを言って、交渉させないって作戦か。
「……はい」
 しぶしぶ頷くと、足利さんが顔を歪めた。
「……ったく、おまえたちは勝手なことを……」
 そして相沢がほんの少しだけ目を細めて、意外なことを口にした。
「――尾形は、話していないんですか?」
 何を、だ?
 まだ尾形は俺に何か隠しているとでも言うのか。それも、相沢の弱みを。
「尾形は生きてるよ。あんたにとっては、死んでもらったほうがよかったか?」
 とりあえずカマをかけてみる。隣で足利さんが俺の物騒な質問にぎょっとしたけれど、相沢はわずかに口角を上げた。
「まさか。彼には感謝してますから」
「そりゃまた、パンチの効いた厭味だな」
「厭味じゃありませんよ」
 相沢は涼しい顔で言い切って、中国人の殺し屋を連行するように部下に命令する。そして、俺たちを通り越してドアの方を見ると、小さく会釈した。
 振り返ると、俺のすぐ後ろに松下理事官が立っていた。
「うちはこの中国人だけで。深川はそちらでどうぞ」
 厭味なくらい平然と言って、出口へ向かう。通り道を埋めていた刑事が、相沢を睨みつけながら威圧的に道を明け渡した。この状況でも平静を保てるなんて、相沢はどういう神経をしているんだろう。
 部屋を出て、松下理事官とすれ違ったその時、相沢の口が小さく動いた。松下さんと、すぐ後ろにいる俺だけに聞こえる程度の大きさで。
「尾形さん、お大事に」
 松下理事官の顔が、わずかに強張った。
 いや、俺の顔も強張った。
 相沢は、尾形と松下さんが親子だということを知っている。
 つまり、相沢は初めから松下さんの弱みを握っていたから、俺たちに深川が犯人であることを教え、一ノ瀬と繋いだんだろうか。最初から俺たちを利用して深川の居場所を突き止めさせるつもりだったんだろうか。
 だとしたら、とんだ策略家だ。
「松下理事官、いいんですか?!」
 めずらしく足利さんが声を荒げた。
「たった今、上から連絡があった。雨宮夫妻の件は公安が仕切るそうだ」
 足利さんを見ずに、ルーレット台に視線を落として、静かに答えた。
「どういうことですか」
「知りたくもない。主犯の深川の脅迫事件は、一課が仕切る。それでいいだろう」
 どこか言い捨てるような、苛立った言い方だった。
 この人のこんな姿は、始めて見た。
 きっと松下理事官もやりきれない気持ちなんだろう。結局、警察は上の言うことが絶対の、縦社会だ。
 その気持ちが痛いほどわ伝わって、何も言えなかった。
「鑑識呼びます」
 俺はそれだけ言って、ビルの外に出て、耳から無線を外した。
 照りつける太陽の下、観光客が野次馬となって周囲を囲んでいた。白昼の発砲音に救急車だ。事件の真相をかぎつけられるのも、時間の問題のように思えた。

 事件は、本当に解決したんだろうか。
 酷く後味が悪かった。

雨宮陽生

 尾形がERに入って1時間が過ぎようとしていた。
 その間に2人の救急患者が運ばれてきて、1人は心肺停止の男の子だった。ストレッチャーを追って母親が泣き叫ぶ様子を見ながら、もっと凄まじい人間がいることで、不謹慎にも俺は落ち着きを取り戻していた。
 あの子に比べたら、尾形はずっとマシな状態だ。意識もあったし、体力もある。

「そういえば、あんた名前は?」
 俺の隣に座っている捜査一課の日比野と名乗った男は、思い出したように聞いてきた。
 どう答えようかいろいろ考えて、尾形がこいつの前で陽生って呼んでるから、それに相沢に名乗った苗字をつけて。
「鈴木、陽生」
 日比野は少し疑い深げに俺を見た。そして、何を思ったのか小さくため息をついて、背もたれに身を任せる。
「鈴木陽生って、韻踏んでんじゃねーよ」
 ……別に好きで付けた名前じゃねーし。
「つーか、おまえ誰かに似てるんだよなぁ、誰だっけ……」
 まじまじと俺の顔を見ながら、日比野が呟いた。もしかしたら、父さんのことを言ってるのかもしれない。それに、事件の当日に俺が麻布にいたことに気付いていながら、それを聞かないのは、もしかしたら何か勘付いていて、カマをかけられているのか。
 そんなことを考えていると、ERの自動ドアが開いて、マスクを外しながら出てきた医者が、俺たちの前に立った。
「病状の説明をしたいんですが」
 やけに綺麗な顔立ちの医者だった。

 ERのすぐ隣にある小さなカウンセリングルームに向かう医者の背中を見ながら。
「あれ、医者か? モデルか俳優だろ……」
 日比野が小さく呟いた。激しく同感だ。
 窓のない部屋で4人がけのテーブルにつくと、彼は救急専門医の立花と自己紹介した。
「弾道は左大腿部の大動脈掠めて貫通していました。術後に精密検査をしましたが、体内に弾丸の破片などは残っていませんから、感染症にならなければ1週間から10日ほどで退院できると思います。出血性ショックに陥っていたのでICUで経過を見ますが、問題なければ明日には大部屋に移れるでしょう」
 パソコンのディスプレイに映し出されたレントゲンを見ながら、淡々と、けれど決して冷たくない口調でそう言った。
 思っていたよりも冷静に、その状況を受け止めることができた。
「普通に歩けるようになる?」
 そう聞くと、彼は柔らかく微笑んだ。
「幸い、大事な神経は傷ついていませんでした。多少リハビリは必要ですが、大丈夫ですよ」
 よかった……。
「ただ、まだ意識が戻っていません」
 え?
「はあ? 明日には大部屋に移れるんだろ?」
 俺が思ったことを、日比野が先に、喧嘩を売るような口調で言った。けれども立花先生は特に態度を変えずに、カルテをチラリと見て。
「ええ。よほど疲れていたのか、ぐっすりと眠ってます」
 その綺麗な顔で、大真面目にそう言う。
「は?」
 隣で、日比野が間の抜けた声を出した。
「おい、ちょっと待て。俺たちは、寝てる男を心配してたってことか?」
「いいえ、眠ってはいますが、ついさっきまで危険な状態でしたし、無駄じゃないと思いますよ」
 日比野がガタッと音を立てて立ち上がった。
「ムカつく。心配してやってるこっちの気も知らないで、あいつは寝てるってことだろっ?! こっちは不眠不休で働いてるのに!」
 そこまで怒ることはないと思うけど、確かに拍子抜けした。意識が戻らないなんて、何かあったのかと思った。でも、よく考えたら尾形は俺と出会ってから3日間ほとんど寝てなかったんだよな。
 立花先生は、その綺麗な笑顔でなんとか日比野を落ち着かせて書類にサインさせた。
「寝てる間に顔に落書きしてやる」
 日比野は冗談に聞こえないことを言いながら、部屋を出て行った。本当に落書きしに行ってそうだ。それを見送って、静かになると、でっかい溜め息が出た。
「はあああああぁ……」
 息と一緒に、体中に溜まっていた毒が一気に抜けたような気がした。そして、その毒にまみれて見えなかったものが、見えた。

 尾形の言いたかったこと。
 俺の甘さ、尾形の優しさ。
 それに、俺にとって尾形の存在。
 俺の中には、もう尾形の居場所がちゃんとあって、そこから尾形が消えるということは、尾形の存在そのものがなくなることのように思えた。
 恋愛とか吊り橋理論とか、そんなことどうでもいい。
 そんな感情の名前なんて、俺にとっては後付けで意味が無い。
 誰よりも尾形が大切だと思う、それでいい。

「心配なら、面会できるけど?」
「あ……いえ、いいです」
 断ると、立花先生は優しく微笑んだ。
 この世界で杉本さん以外に出会ったまともな人で、どこか安心した。
「好きなんだろ、尾形さんのこと」
 あまりにも突然、しかもたった今考えていたことを言われて、返す言葉がなかった。
 っていうか、それ以前に男同士なのに、なんでそういう話になるんだ?
 唖然とする俺を見て、立花先生は優しく言う。
「見てればわかる」
 軽蔑なんて微塵もない、そんな笑みだった。尾形とはまた違う優しさに、今は言い訳するよりももっとほかの事を話したいと思った。
「立花先生は、どうして医者になろうと思ったんですか?」
 そう聞いたのは、この人が俺にはできなかったことをしたからなのかもしれない。
 目の前で撃たれた尾形に、俺は何もできなかった。
 立花先生は一瞬だけ驚いたように俺を見て、けれどもすぐに優しい顔に戻って、
「まぁ、強いて言えば、向いてると思ったからだろうな」
 まるで他人事みたいに答えた。
「そんなこと高校生の時にわかったんですか?」
「わかったよ。虫や爬虫類よりも人間の内臓の方が綺麗だと思ったから」
 って、当たり前みたいに言うけど。
「……それって、一歩間違えると変態ですよ?」
「そうかもな。でも、人体で粗末に作られているものなんて一つもない。全てに理由があって、全てが複雑に絡み合って、できている。そう思うと、不思議すぎて、ある意味綺麗に見えるんだよ」
 さらりとした口調だけど、どこか説得力のある言葉。
 立花先生の言いたいことが、なんとなくわかるような気がした。
「あとは、人間が起こす奇跡っていうもの凄さに、惹かれたのかな」
「奇跡?」
「そう。例えば尾形さんだって、本当は意識がなくなってもおかしくないほどの出血だった。それなのに、麻酔するまで君のことを気にしていた」
 は、恥ずかしい奴だ……瀕死の状態で男の心配するなよ。
 俺のほうが赤くなって、それを見た立花先生がクスリと笑った。
「体がどんなに苦しい状況でも、限界以上の能力を発揮する。大切な人のために」
 大切な人。尾形にとって大切な人って、俺だったのかな。
 だとしたら、俺は尾形に何ができるだろう。大切な人のために。

 血を見ると気絶する。
 父さんが目の前で心臓マッサージされてるとき、俺は呆然と立ち尽くして、気を失った。
 心的外傷後ストレス障害PTSD ――親が目の前で殺されたことを思い出さないように、俺は無意識に血を拒否していたんだ。
 でも、尾形が撃たれた時、動揺したけど気絶はしなかった。
 それなのに、俺には何もできなかった。

 父さんも母さんも、尾形も、俺を守るために、自分の命さえ顧みなかったのに。

 俺は、何もできなかった。

「医者になりたいなら、いつでも相談に乗るよ」
 どうして、俺の考えていることがわかったんだろう。
 立花先生の言葉は、あまりにも的確に俺の核心をついていて、清々しささえ感じた。