始まりの日

未来 - 27

雨宮陽生

 正午まであと15分しかない。
 とにかく、人混みを掻き分けて走った。
 額から滝のように汗が流れてきたけど、いちいち拭ってられない。
 嘘をついて警察署から逃げ出してきたのが5分前。追って来た警官は、人混みに紛れた俺を見失ったみたいで、もういなかった。
 大げさなことになってたら、尾形の悪事を暴露してやる。
 頭の隅であの警官の今後をほんの少し心配しながら、大桟橋入り口というスクランブル交差点を渡って、建物を1つづつ確認した。

 それは、すぐに見つかった。
『Chainese Bar 月の華』
 迷わず、ゆっくりと狭い階段を下る。
 たった十数段の石の階段なのに、まるで地下深くへ続いているみたいに暗かった。
 狭い空間に、呼吸の音が響く。
 階段を降りきった右側に茶色い木製のドアがあり、「CLOSE」という札がかかっていた。耳をドアに当てて中の音を確かめる。物音や人の気配は何も感じなかった。

 暑さの汗とは違う汗が、こめかみをつたった。
 ここにあの殺し屋がいたら、殺されるかもしれない。父さんと母さんみたいに、何のためらいもなく。
 携帯を握り締めた。
 尾形に連絡したほうが、いい。
 でも、俺の勘違いかもしれない。証拠もないし、時間もない。
 そもそも、もう尾形になんて頼りたくない。
 ここに深川や殺し屋がいることがわかったらすぐに杉本さんに連絡すればいいだけだよな。
 心の中でそう言い聞かせてから、木のドアノブをゆっくり3、4センチだけ押した。
 隙間から覗くと、白熱灯の薄暗い明かりが点っていて、直接店内が見えないように観葉植物と中華風のゴージャスな龍の屏風が置いてあった。
 やっぱり人の気配がない。もしかしたら、違うかもしれない。
 一瞬ホッとした自分に気付いて、呆れた。
 犯人を捕まえに来たのに、今さら怖気づいてどうするんだよ。
 音を立てないように中に入って、注意深くドアを閉める。そして、ドアに背を張り付けてしゃがみこんだ。入り口のすぐ右脇に細い廊下が伸びていてトイレらしいドアがあった。
 四つん這いになって屏風の脇から、店の奥を覗き込んだ。
 真夏の日差しから急に暗がりに入って目が慣れるまでに時間がかかる。何度か瞬きをして、店の間取りを目で追った。
 奥に細長く続くフロア、右手にバーのカウンター、左手に2人がけのテーブルが6セット、椅子はテーブルの上に逆さまに上げられている。その奥にビリヤード台があって、さらに奥に半透明の布で隠されたドアが、ぼんやり見えた。
 犯人がいるとしたら、そこかもしれない。
 カウンターに沿って音を立てないように、携帯を握り締めたまま這って進む。木製の床が微かにきしむ音がして、顎を伝った汗が床に落ちた。
 そして、布で覆われたドアの横の壁に背中をつけて座り込んだ時、かすかに聞こえた音に、耳を疑った。
「……マジかよ」
 警察無線の音だ。
 この部屋から漏れてきてる。
 つまり、確実に警察の動きが読まれてるうえに、ここに犯人がいるに違いないってことだろ。
 携帯メールを立ち上げて、尾形にメールを打とうとした、その時だった。
 カチャ
 ドアノブの回る音がして、俺のすぐ脇でドアが開いた。
 ヤバイ……!
 咄嗟に携帯を背中にまわして伏せて、体を小さく丸めた。
 薄暗いし、しゃがんでいるから動かなければ気付かないかも知れない。
 ドアからやたらとガタイのいい、黒ずくめの男が出てきて、どっしりとした足取りで店の出口の方に向かって歩いていく。
 息を潜め、全身を緊張させて男の背中を見つめた。
 頼むから振り向かずにさっさとトイレにでも店の外にでも行け!
 けれども、男はほんの数メートル先で、ゆっくりと、まるで最初から俺の存在に気付いていたとでも言うように、振り向いた。
 目が合った。
 背中にタラリと氷みたいな汗が流れる。
「ナニシテル?」
 英語訛りの喋り方で言いながら、見覚えのある四角い顔の男が腰に手を回しながら俺に歩み寄った。
 父さんを殺した、中国人だ。
「……ちょっとトイレ貸してもらおうと思って」
 我ながら苦しすぎる言い訳で呆れかえる……どこへ行った、IQ200超の頭脳っ。
「……食あたりしたみたいで、ははは」
 こういう時って、笑いたくもないのに笑っちゃうんだ。
 けれど、男は俺の言うことを聞いているのか聞いていないのか、無表情のまま斜め前に立ち止まって俺を見下ろした。
 右手を腰に回したまま、たぶん銃を出す気だ。
 そして、次の瞬間、背筋が凍りついた。
「死ねば、それも気にならない」
 口元を不気味に歪めて、蛇みたいな目をしていた。
 初めて、人の目が怖いと思った。
 同じ無表情でも、相沢の目とはまるで違う。冷静なんかじゃない。冷酷なんだ。
 父さんと母さんがこんな奴に殺されたんだと思うと、腹が立った。こんな奴に、人生を終わらされたんだと思うと。
 腹の中の黒い渦が、ジワジワと喉元に熱く競り上がる。
「その右手に何隠し持ってんだよ」
 開き直って言うと、男はわずかに口角を吊り上げた。
「世の中、知らないほうがいいこともある」
 誰かと同じことを言う。その感情のない目で、尾形と同じことを。
「へぇ……」
 あまりの理不尽さと、憤りで、逆に冷静になれた。
 気付かれないように深呼吸すると、奥から警察無線の会話がかすかに聞こえた。
 警察は完全に月華樓を囲んでるはずだ。この殺し屋も深川も、それを見透かして、悠然とここで逃げ時を待っている。
「あんた、いくら貰ってこの仕事してんの? 深川が今回の犯行で20億円手に入れるつもりだって知ってる?」
 英語でそう教えてやると、男が目を細めた。
 20億もの大金のうち、こいつの分け前がどんなもんなのか、深川の姑息さを考えると大体予想がつく。だったら、こいつにボスが獲物を独り占めしようとしているって教えてやれば、多少ボスに反感持ってくれるかもしれない。
 そう、期待した。けれど。
 男は何も聞いてなかったかのように、ゆっくりと腰から銃を引き抜いて、俺の額に銃口を向けた。
 失敗か。
 でも、サイレンサーが付いてない。
「その銃で俺を撃ったら、銃声でこの場所がバレちゃうよ」
 そんなことどうでもいいのか、目の前の男は眉ひとつ動かさずに左手で銃上部のスライドを引く。
 そして、人を嘲る醜い笑みを浮かべた。その目には、負の感情しかないような気がした。

 どんな経験をして、こんな目をするようになったんだろう。
 こんなふうにならないために、俺は記憶を失ったのかな。
 だったら失ってよかった。じいさんが嘘ついてくれて、よかった。

「あんたさ、自分の大切な人を殺された経験、ある?」

「――?」
 一瞬、男が怯んだのを見逃さなかった。
 立ち上がると同時に男の股間めがけて両手で強く突き殴って、一気に出口に向かって突っ走った。
 パンッ! パンッ!
 狭い店に耳が痛くなるくらいの音量で発砲音が響いた。
 やばい、マジで殺される!
 そう思った時だった。

 ドンッ!!

「うわ!」
 銃声とともに突然何かが飛び出してきて、突き飛ばされた。
 そのままカウンターに背中がぶつかって、倒れこむ。
 何が起こったのかわからなくて、咄嗟に俺の上に圧し掛かってきたその正体を確かめて驚いた。
「尾形!?」
 なんで!? なんで尾形がいるんだよ!
「仲間がいたのか」
 無表情な声がして顔を上げると、ほんの数十センチのところから、俺に銃口を向ける男が立っていた。
 相変わらずムカつく歪んだ笑みで見下ろされて、一言言ってやりたい気分になって、口を開きかけたとき、
「動くな、手を上げろ!」
「え?」
 張り詰めた声がして振り向くと、出口の屏風の前で、相沢と数人の刑事が男に向かって銃を構えていた。
 なんで相沢が……?
「Shit!」
 男がバッと身を翻して部屋の奥へ逃げる。すぐに相沢たちがそれを追って、部屋のドアを打ち破った。
 耳をつんざくような破壊音がして、部屋の中から銃声と男たちの怒鳴り声、家具が倒れるような音が聞こえてくる。
 それでも、助けが来たことに、胸をなでおろした。

 よかったぁ……。
 危うく殺されるところだった。
「…………はあぁ、よかった……」
 耳元で尾形の安堵の声がして、ハッと我に返った。
「まさか、閉じ込めたはずのおまえがいるとは、思わなかったな……」
 尾形は呆れたように言いながら体を起こして、俺の隣に壁に背を付けて座りなおした。
「閉じ込めたって――」
「こういう目に遭わないように、善処したつもりだったんだけど」  俺の言葉を遮るように、皮肉っぽく言う。
 何が善処だよ、そう言い返そうとした。けれど、どこか違和感があって、何気なく尾形の顔を覗き込んだ。
「尾形……?」
 どこが、おかしい?
 尾形はニヤリといつもの意地悪な笑みを浮かべた。
「早く店の外に出ろ。すぐに警察が来るから」
 そう言った時、パッと蛍光灯がついて店内が一気に明るくなった。瞬間、視界の片隅に入った色に、愕然とした。
「え…………?」
 一瞬、それがなんなのか分からなかった。
 赤い液体が、木製の床にじわじわと広がっていた。
 尾形の赤く濡れた手の下、左ももの内側からだ。
「お、がた……?」
「チッ……バレないと思ったのに、な」
 尾形は悔しそうに舌打ちして、天井を見上げて目を閉じた。
 額にも首筋にも、脂汗がびっしりと浮き出して、苦しそうに喉仏が動いた。
「何言って……これ、さっき……」
「はは、撃たれたみたい……」
 俺をかばって――――。

 また……?
 また、俺のせい?
 尾形まで――――?

「尾形!」
 ドタドタとうるさい足音とともに、杉本さんの叫び声がして、すぐに尾形の横に膝をついた。
 大声で何か叫んで、何人もの刑事が慌しく行き来して大声で話すのを、頭の片隅で聞いた。

 血溜まりが、床板のつなぎ目を埋めるように容赦なく広がっていくのを見つめた。
 あの日と重なった。
 温かい血が、俺の指の間をすり抜けて流れ出る。
 父さんは小さく、最期に弱々しく微笑んだ。

「雨宮!!」
 耳元で大声がして、ハッとした。
 突然周囲の喧騒が脳に飛び込んできて、現実に引き戻された。
「あ……俺…………」
 尾形は仰向けに寝かされて、杉本さんが尾形の足に何かを巻いている。
「しっかりしろ! 左脚持ち上げて!」
 また至近距離で怒鳴られて、止まりかけていた思考が動き出した。
 そうだ、このまま何もしなかったら、また同じことの繰り返しになる。
  言われた通り尾形の左脚を高く持ち上げると、杉本さんは手にしたネクタイを尾形の傷の真上に巻いて、きつく縛り上げた。
「くっ……」
 尾形が、痛みに顔を歪めた。
 それを見て、ほっとした。尾形は生きてる、大丈夫だ。
「痛ってぇなぁ……俺はSだって言っただろ……」
「そんな冗談言ってる余裕があれば、大丈夫だな」
 杉本さんが怒ったような口調で言って、立ち上がった。
「救急車2分で来ます!」
 誰かの声がして、杉本さんが的確な指示を出していた。それなのに、俺は目の前の尾形の顔色が悪くなっていくのをじっと見つめることしかできなかった。
「雨宮、椅子に尾形の脚乗せておけ。頼むぞ」
 杉本さんを見上げると、もう視線は店の奥を向いていて、返事をしないうちに走って行った。
 傍らに木製の椅子がテーブルから降ろされていた。そこに尾形の左脚を乗せ、横に移動して顔を覗き込んだ。
 顔色はひどいけど、視線はしっかりしているように見える。
 俺たちを避けるように行きかう刑事と、激しい物音と、なんて言ってるのか分からないくらい騒がしい怒鳴り声。そんな騒音の中でも、ぼそりと呟く尾形が声が、俺の耳に響いた。
「血、止まらないなぁ……確実に、動脈プッツリいったな」
 尾形はいつもみたいに意地悪に笑った。
「雨宮、3センチくらいの堅い石みたいなの、ない?」
「あ……探してくる」
 止血に使うんだ。カウンターの中に何か使えるものがあるかもしれない。そう思って立ち上がろうとして、ぐいっと手首を捕まれた。
 こんな青白い顔して、どこにそんな力が残ってるんだよ。
「いいよ、行くな。そばにいろよ……」
「嫌だ、探してくる」
「行くなって……死んだらどうすんだよ」
 苦しそうに、眉を寄せながら笑っていた。
「バ、バカ! シャレになんねーこと言うなよ!」
 思わず怒鳴りつけると、今度は声を出して笑う。
「ははは、違うって。間接止血って方法があるの。雨宮の手借りないと、できない」
「……紛らわしい言い回しするなよ。どうすればいいの?」
「ここ、骨に向かって強く圧迫して」
 言いながら俺の手をひっぱって、左脚の傷よりも付け根側に当てた。
「え、ええ!?」
 その場所があまりにも股間に近くて、こんな状況なのにかなり焦った。
「何意識してんの? 動脈圧迫してってことなんだけど」
 尾形はニヤニヤとムカつく笑みを浮かべて、この期に及んで俺をからかう。いつもなら言い返してやるところだけど、さすがに今はそんな気分にはなれなかった。
「ここ?」
 親指でそっと、血で赤く染まったスラックスの上を押すと、尾形は痛そうに顔を歪めながら頷いた。
「そうじゃない、掌でもっと強く………体重かけて、そう………ほら、血、止まった」
 言われた通り膝立ちになって体重をかけて押すと、目に見えて出血量が少なくなるのがわかった。
 あの日も、俺は父さんの傷口を必死で抑えた。
 父さんを殺した犯人が許せなかった。
 けれども、今は犯人への憎しみよりも、こんな簡単に血が止まることを知らなかった自分が、許せない。
 尾形にこんな傷を負わせた自分のほうが許せない。

 どうして、みんな俺なんかを守ろうとするんだろう。
 俺のせいで、死んで、こんな目にあって。
 俺にはそんな価値なんてない。
 何もできない人間なのに、どうして――――。
「……ごめん…………」
 搾り出すように、それしか言えなかった。
 こんな言葉しか見つからない。
 尾形の言うこと、きかなくてごめん。
 13年前から何も進歩してなくて、ごめん。
 こんな俺で、ごめん。
「ごめん……」
 涙があふれそうになるのを、必死でこらえた。
 泣いちゃいけない。俺が泣くのは、卑怯だ。
「謝るな。このくらいじゃ死なないから」
 尾形はいつもと変わらない口調でそう言って、血だらけの右手を俺の手に重ねた。