始まりの日

未来 - 26

雨宮陽生

 尾形の後を追って通された部屋は、取調室だった。
 狭くて素っ気無い、灰色のデスクと椅子だけの空間。尾形は俺を入り口に背をむける形で座らせると、その向かいに、脚を組んで、あいかわらず偉そうに座った。
「どっから話そうか……」
 いつもの、意地悪な笑みや、時々見せる鋭い目つきを完全に封じ込めて、けれども無表情じゃない、緊張感のある顔をして話し始めた。
「今朝、犯人から身代金の要求があった」
 金目当てってことはわかっていたから、最初は、どうして尾形は俺に話そうと思ったんだろうって思いながら、尾形の話を聞いた。でも話が進むうちに、そんな疑問なんてどうでもよくなっていた。
 たった2日しか経ってないのに、俺が思っていた以上の進展があった。
 香港からの電話、現金輸送車を受刑者に運ばせること、川井正男、深川賢治の居場所、月華樓、雅光殿、パークタワーウェストにいた黒田、そしてエビゾーっていう奴とふりふりメール。この辺になるともうネーミングからしてコントっぽいけど。
「で、そのメールをどこから送信しているのか調べたところ、月華樓本店からだと、ついさっき判ったところだ」
 尾形はそう話し終えると、俺に質問する隙を与えずに立ち上がって、
「ちょっと待ってて。見せたいものがある」
 それだけ言い置いて、部屋を出て行った。
 バタン、とドアが閉まって急に静ずまり返った取調室に、時計の秒針音がカチカチと響いた。壁時計を見ると11:35を指していた。

 疑問はまだ山のようにある。
 現金は都内の銀行から奪うのに、どうして深川は中華街にいるのかとか、深川が警察と繋がっているとしたら、今している捜査は深川に筒抜けなんじゃないかとか、細かいことも挙げたらきりがない。
 けれど、何よりも、メールにあった『月』が本当に月華樓のことなのかが気になった。
 そもそも月華樓本店には黒田が出入りしていた店だ。普通、むりやり共犯にさせて、あわよくば罪をかぶせようなんて奴に潜伏先を教えるか? いくら妻子を人質にとっていたとしても、逮捕された黒田が裏切らない確証なんて、どこにもない。
 それに3日に深川が月華樓にいたってことは、もう15日も同じ場所にいる。そんなに長時間同じ場所にいるのも不自然だ。
 もしかしたら、違う『月』があるのかもしれない。だとしたら、それはどこなんだろう?
 そう考えていると、近くの旅客船ターミナルから、船の汽笛が聞こえて、ハッとした。
「――!!」
 思わず勢いよく椅子から立ち上がった。
 ガシャンッ! と背後で椅子の倒れる音が派手に響いた。
「船、だ……」
 有楽町のネットカフェで見た地図を思い出した。
 この中華街の目と鼻の先に、海外からの豪華客船も頻繁に出入りしている大桟橋おおさんばし国際客船ターミナルという港がある。「国際」なんていっても空港よりもずっと規模が小さいから警備もゆるいだろうし、ちょっとよくできた偽造パスポートを使えば出国なんて簡単だ。
 それに、そもそも5台の現金輸送車から全ての金を手に入れるまで、少なくても5時間はかかる。現金輸送車を運ぶ時間帯がずれているのは、何台かを犠牲にして深川が逃げる時間を作るためかもしれない。
 計画や打ち合わせだけを、中華街でして、そこがアジトだと警察に印象付ける。そして警察に見当外れの場所を探させている間に、船で逃げるつもりだ。
 だとしたら、もっと大桟橋に近い場所に隠れているはずじゃないか?
 尾形はこのことに気付いてるのか? そう思った時、ガチャッと背後でドアが開く音がした。
 振り向くと、見たことのない警察官が立っていた。

杉本浩介

 中華街のメインの通りから、車が1台やっと通れるほどの脇道を入った所に、間口の広い4階建てのビルがある。 黒地に金の文字で「月華樓」と書かれたでっかいい看板を掲げた1階の入り口には、12時前にもかかわらず客が20人以上の行列を作っていた。
 その斜め向かいにある中華食材店で、観光客を装って干し貝柱を手に取りながら、無線のイヤホンに耳を傾けた。
『こちらC班・日比野です。お盆休みで市の職員と連絡が取れないそうで、月華樓本店の設計図の入手に時間がかかりそうです』
 クソッ。
 12時まであと20分しかない。
 3時間前に全部のフロアを見せてくれと頼んで調べたが、地下があるなんて、店長は一言も言っていなかったし、俺が見た限りでも、地下の存在を確認できなかった。そうなると地下室の場所は設計図で確認するしかない。それも間に合わないとなると、確証が得られないまま特殊捜査班SITが強行突入するか、設計図が届くまで待たなければならい。
『こちら特殊捜査班SIT、月華樓裏口に配備完了。どうぞ』
『本部、了解です』
『こちらD班笹山、中華街全道路の封鎖準備、完了。どうぞ』
『本部、了解』
 着々と深川を包囲する準備が整っていく。店内にも何人か刑事が客として入り込み、観光客に扮した捜査員が80人以上このあたりに集まりつつあった。中華街の満員電車のような人ごみの中、一般人がどれほど危険に晒されているかを考えると、警察官が何人いたとしても心配で仕方ない。
「それで炊き込みご飯作ると、最高なんだよな」
 急に背後から言われて、驚いた。
「なんだ、尾形か」
「悪かったな、俺で」
 どこか呑気に言いながら、俺が持っていた袋を奪った。
「こんな所にいていいのか?」
 科捜研の人間として、まだ署でやることがあるはずだ。
 尾形は小さく笑って月華樓をチラリと見た。
「現場をね、見ておきたくて」
 観光客に遮られていて、入り口すらほとんど見えない。ましてや尾形が知りたがってるだろう「地下」があるかどうかなんて、店にいる刑事にも分からないはずだ。
「雨宮が来たよ。今、加賀署の取調室に閉じ込めてる。嫌われるかな」
 唐突に言って、尾形はまるで自嘲するように笑った。
 雨宮が簡単に言うことを聞くわけがないから、尾形も相当強引な手を使ったんだろう。
「そうか……すまない」
 もともと、俺が中華街にいると口を滑らせたからだ。
 今日は俺はヘマばっかりだ。
「杉本さんのせいじゃないよ。雨宮なら、自力で中華街を突き止めて来てたはずだから」
 尾形はそう言うが、ただの高校生がそんな芸当できるわけがないから、どう考えても俺が悪い。
「『誰にも裁かれないなら、俺が深川を恨んで責めるしかない』んだって」
「…………」
 それが誰の言葉なのかはすぐにわかった。けれども尾形の普段と変わらない口調が、逆に悲痛に思えて、言葉が出ない。
「俺さぁ、根っからのSなんだよね。医者から警察に方向転換したのも、人を助けるよりも追い詰めいくのが好きだからなのに、今は――……」
 そこまで言って、尾形は言葉を切った。
 雨宮を助けたくて仕方がない、そう言おうとしてたんだろう。
 言うのは簡単だ。けれども、どうすれば雨宮の心が犯人ではなく、自分の未来に向けるようになるのかなんて、誰にもわからない。
 俺が見てきた被害者遺族も、たとえ犯人が死刑を宣告されて刑が執行されても、死んでも、癒されない傷を抱えたまま何十年と生きている人間ばかりだ。
 けれども、だからと言って悲痛さを嘆いているだけじゃ、何も進まない。
 ポン、と言葉の代わりに尾形の背中を叩くと、尾形は珍しく小さく溜め息を付いた。そして気分を入れ替えるように、手にしていた干し貝柱を店の棚に戻すと、今度はいつもの尾形らしく少し鋭い目つきで月華樓の看板を睨んだ。
 まるでそれを後押しするかのように、ボボーッ、と遠くで船の汽笛が響くのが聞こえた。
「個人的に聞きたいんだけどさ、杉本さんの感触として、事情聴取した店長、嘘ついていたと思う?」
「思わんな。だが、店長も知らなかっただけかもしれない」
 そいつが嘘をついていなかったという確信はある。けれど雇われ店長だったら、地下に隠し部屋あることを知らないということも十分ありえることだ。
「確かにね」
 尾形は小さく頷いて口角を上げて、続ける。
「でも、木は森の中に隠せって言うなら、逆に木を見て森を見ずってね」
「なんだそれ?」
 尾形は答えずにニヤリと意味深に笑って、走って店を出て行った。
 木は森の中に隠せ、つまり観光客でごった返すこの場所だったら、深川が隠れやすいとでも言いたいんだろう。
 だったら「木を見て森を見ず」は木が深川だとしたら、森はいったい何なんだ?

雨宮陽生

「君、大丈夫かい?」
 40半ばくらいの誠実そうな警官は、椅子を起こしながら言って、俺の両肩に手をかけて無理やり椅子に座らせた。
「ご両親がもうすぐ来るんだろう? 迷惑かけたことをちゃんと謝るんだよ」
「は?」
 言ってる意味がわからない。
 考えられることは2つ。こいつが何か物凄い誤解をしているか、尾形に何か言われたのか……たぶん、両方だ。
「あの、俺何でここにいるの?」
 しらばっくれていると思ったのか、彼は俺をあやすように肩をポンポン叩いた。
「悪いことをしたら、警察に捕まるんだ。もう万引きなんてするなよ」
 ……は? 万引き!?
「それ誤解! 俺何もしてないしっ」
 あまりの突拍子のなさに、また立ち上がって言うと、警察官がまるで他人事のように俺をなだめようとした。
「みんなそうやって言うんだよ。せっかく尾形さんのおかげで店の人が許してくれたんだから、ちゃんと反省しなきゃ」
 あいつっ!!
 やっぱり俺に嘘ついて出てって、こいつを騙して俺を見張らせてたのかよ!!
「尾形さんのおかげって――」
 信っじらんねー……。
 まんまと騙された俺も俺だけど、やり方が姑息すぎる。
 怒りも呆れも通り越して、悲しくなってきた。
 尾形は俺の気持ちを知ってるのに、どうしてそこまでして俺を邪魔するんだろう。
 分かって欲しかったのに……尾形だけには。
 2021年には俺の味方は1人もいないような、そんな気がして、心臓の奥がチクリと痛んだ。
 その痛みに気付かないふりをして、目の前にある事態に集中した。
「すみません……親にこんなところに来させるのかわいそうなんで、1階のロビーで待っていてもいいですか?」
 とにかく、ここを出なきゃ始まらない。

尾形澄人

 さっきの船の汽笛でピンときたけど、もっと早く気付くべきだった。
 深川は旅客船のターミナルから船で逃げるのかもしれない。そして杉本さんの話を聞いて、それが確信に近くなった。
 人混みを掻き分けて加賀署方面に走って、署の手前を右に曲がる。
 中華街から大桟橋旅客船ターミナルまでは、走れば5分程度だ。
 真夏の昼間、さすがに人混みの中を走り回るには辛い時間帯だ。しかも寝不足で足が重い。でもそんなことを言ってる余裕はなかった。
 どうすれば雨宮があんな辛い顔をしなくなるのかなんて、わからない。
 けれども、深川をこのまま逃がすことだけは、絶対にさせられない。
 そう思うと、体が勝手に前に進んだ。

 無線のイヤホンから、突入準備のやりとりがひっきりなしに伝わってくる。深川の居場所を月華樓本店に断定して、11時50分の川本から入電があったら突入するつもりだろう。
 深川たちが月華樓にいるのなら、それでいい。いや、むしろ月華樓にいて欲しい。
 ただ、ひどく嫌な予感がした。
 確証なんてないし、俺の思い過ごしであってほしい。
 国道を横切って、海の方へと走っていくと、減りかけた観光客がまた増え始めた。
 もしかしたら深川はこんなことも想定していたのかもしれない。もし居場所を突き止められても、こんなに観光客が溢れてたら、警察は下手なことができない。
 銃を持っている可能性のある深川を、建物から一歩も出すことはできないな。

 左手に歴史的な建造物が立ち並ぶスクランブル交差点では、渋滞で曲がりきれなかった乗用車が立ち往生する中、観光客が車の間を縫うように横断していた。
 その交差点の100メートル先に、大桟橋旅客船ターミナルがある。
 交差点の周囲の建物を見回した。ちょっとした広場になっていて、それを囲むように何件か飲食店が立ち並んでいる。
 呼吸を落ち着かせながら、月というキーワードの付いた店を探した。いや、もしかしたら『月』はただの暗号で、実際の場所とは関係ない文字かもしれない。
 それでも今手がかりになるのは、それしかない。
 数件のレストラン、ラーメン屋、セレクトショップ。
 そのうちの1つ、灰色のビルの壁に、小さな黒いプレートを見つけた。
『Chainese Bar 月の華』
 ここ、だ。
 名前からして、月華樓が運営するバーなんだろう。
 プレートの右に、地下に続く階段があって、降りきった右手に木製のドアが見えた。
「おじさん、この店って、今営業してる?」
 近くにいた有料駐車場の案内看板を持って立っている、60代くらのホームレスっぽいオヤジに聞くと、中国語なまりの日本語で答えた。
「アー? 夕方6時くらいからやってるヨ」
 6時、か。バーだったらそのくらいが妥当だな。もちろん今は営業時間外だ。
 腕時計を見ると、11:48になろうとしていた。あと少しで川上正男から電話がかかってくる。
「オジサン、ここ長いの?」
 言いながらタバコと1万円札を渡すと、オヤジは欠けた前歯を見せてにんまりと笑った。
「休日だけ、もう1年になるヨ」
 そそくさと札をポケットにしまいこんで、タバコを1本取り出した。
「あの店、いつできたの?」
「アー、今年だヨ。清明節チンミンジエの少し前だから、3月の真ん中か終わり」
 なるほど、極左の連中を釈放しろって脅迫があった頃だ。
「ちなみに、最近ガラの悪い男って出入りしてない?」
「ガラの悪い男て、ヤクザ?」
「そうそう」
 頷きながらオヤジが咥えたタバコに火をつけてやると、うまそうに一服吸った。
「夜中に怖い男が来てるて、うちのボスが言てたヨ。こういう仕事はインネン言う人多いから気をつけろ、て」
 思ったとおりだ。
謝謝シエシエ
不用謝ブウヨンシエ~」
 オヤジはタバコを持った手を上げてにんまり笑った。
 とりあえず、入ってみるか。
 そう思って、店に向かおうとした時、後ろからオヤジの声が届いた。
「あ、そう言えばちょっと前に高校生くらいの男の子が、その店に入たヨ」
 思わず足を止めて、わざとらしくスローで振り返ってしまった。
「は?」
 愕然とした。
 思い当たる人間は、1人しかいない。
「なかなか可愛い子ネ」

 雨宮だ――――!