始まりの日

未来 - 20

尾形澄人

 ホテルの外はすっかり暗くなってて、腕時計は8時半になろうとしていた。
 タクシーを拾ってシートにもたれると、一気に疲れが出て自然とため息が出た。丸三日ほとんど寝てないうえにセックスなんてしたからだ。いくら体力に自信があっても、そろそろ寝ないとやばいかもしれない。
 携帯に電源を入れ、杉本さんからの4回の着信通知を無視して、本庁の前でタクシーを降りた。まず先に鑑識に行って、パークタワーウェストホテルの鑑識結果を聞いておきたかった。

 鑑識は科捜研と同じビル、警視庁本庁の隣の合同庁舎の中にある。
 その庁舎の鑑識課の神田みちるのデスクに行ってみると、彼女は席を外していて、デスクの上にパークタワーウェストホテルの鑑識報告書の束が置かれていた。その一番上には、ビニール袋に入れた肉まんの台紙があった。さっき日比野弟に買ってこさせた肉まんの台紙だろう。それをよけて、報告書をパラパラと流し読みした。
 指紋は黒田と一ノ瀬のものが検出されていた。
 一ノ瀬が一緒にいただろうということは、予想していた。黒田は一ノ瀬が組を立ち上げる前から右腕として働いていたわけだから、妻子を人質に脅されて泣く泣く協力している犯行を一ノ瀬に相談してもおかしくない。ただ、一ノ瀬の指紋は内側のドアノブからだけと、極端に少ないから、ずっと一緒にいたわけじゃないのかもしれない。
 そんなことを考えていると、背後でやけに機嫌のいい女の声がした。
「おーがーたっ。あれー、なんか肌の艶よくない?」
 振り向くなり、俺を見て神田はニヤニヤと笑ってそんなことを言う。
 派手な顔に似合わない紺の鑑識の帽子を外して、その中にまとめていた長い髪を首を振って流した。
「ああ、シャワー浴びてきた。さすがに真夏に風呂入らないとキツイからね」
 ごまかせたかどうか分からない。なにせ、この女も俺と同じ種類の人間だ。
「ふーん。ま、いいや。パークタワーウェストの結果でしょ?」
 神田はすっと顔を仕事モードに切り替えると、俺の手にある書類に目をやった。
「13枚目、見た?」
「13枚目?」
 言われて報告書の13ページを開くと、1本のタバコの吸殻の写真が添付されていた。長いまま、たぶん火をつけて30秒も経たずに消している。
「ここから黒田でも一ノ瀬でもない指紋と唾液が検出されたの。前科なし」
 つまり、あの部屋には3人の人間がいた。
「DNAは付着してなかったのか?」
「科捜研でやってもらってるけど、見ての通りすぐに火を消してるから望みは薄いって言われたわ」
 そうなると、報告書にある指紋と、唾液から判明した血液型だけが手がかりってことになる。
「AB型か。性格悪そうだな」
「それ厭味? 私もABなんだけど」
「あ、そ。その二重人格も血液型のせいにしておいてやるよ」
 適当に答えながら、タバコに印字された銘柄に目が留まった。
「あれ、ハイライト? マルボロじゃないのか」
 ホテルにあった大量の吸殻はマルボロだったはずだ。
「そう、フィルターの色が似てるから分かりづらいけど、吸殻の下の方に1本だけこのハイライトがあったの。黒田はマルボロだから黒田のタバコじゃない。とすると、エビゾウが吸っている銘柄か、一ノ瀬がエビゾウにあげたかってことね」
「エビゾウ?」
「AB型だからエビゾウ。いちいちAB型性別不明の共犯者って言うの面倒でしょ」
 神田は平然と説明して話を続けた。
「それとホテル内に26台の防犯カメラがあったけど、黒田も一ノ瀬も1人でホテルを出入りしていて、それ以外に怪しい人物は今のところ見つかってないわ」
 神田の説明を聞いて、エビゾウが妙にひっかかった。
 黒田と一ノ瀬との関係は納得できるとしても、ヤクザの幹部が2人もいる部屋に、前科のない人間がいたということが気にかかる。
 考え込んでいると、神田はビニールに入った薄い紙をひらひらさせて、にっこりと笑った。
「そうそう、この肉まんの店、私の手柄にさせてもらったから」
「どうぞ。神田はあの辺り詳しいのか?」
 神田はパークタワーウェストで見つかったマッチの住所をすぐに中華街だと言い当てていた。
「あれ、話してなかったっけ? 私の実家、元町なの」
 雨宮と同じか。嫌な偶然だな……。

 本庁6階の捜査本部に入ると、また日比野兄が俺に寄ってきて、思わずうっとおしさが顔に出た。日比野兄弟はどうして俺にこうも付きまとうんだろう。
「尾形、あの高校生誰だよ? さっきここに来てたんだってな。冬也とうやが言ってぞ」
 やっぱり兄貴に泣きついたか、あのバカ。
「プライバシーって言葉くらい、知ってるだろ」
 冷ややかに言い捨て、俺を睨みつける日比野を無視して、早足で杉本さんのいる長テーブルに向かった。
「お疲れ、杉本さん」
 声をかけると、杉本さんは振り向いて大げさに溜め息をついた。
「おまえなぁ、勤務中に携帯の電源切るなよ」
 そう言ってだるそうに立ち上がり、親指で外にでるように促した。
 隣の小会議室に入ると、杉本さんは窓側の椅子に座って、深呼吸するように溜め息をついた。さすがに、辛そうだな。
「休んだほうがいいんじゃない? 雨宮用にいつものホテルとったから、3時間くらい寝てくれば」
 隣に座りながら言うと、杉本さんは首をぐるりと回して伸びをした。
「ああ、あとで仮眠をとろうと思っていたところだ」
「じゃ、雨宮に連絡しておくよ。それで中華街の方って、どう?」
 パークタワーウェストに残されていた、マッチ箱の店と、肉まんの店のことを聞くと、杉本さんは眉間に皺を寄せた。
「月華樓も肉まんの雅光殿も白だったようだ。さっき神奈川県警に中華街の防犯ビデオを要請したから、鑑識で調べてる頃だろう」
 防犯ビデオから、黒田か深川か、雨宮の見た中国人のどれかが見つかれば、潜伏地は横浜中華街に絞れる。
「あとは一ノ瀬か」
 一ノ瀬がこの件にどこまで関わっているのかが見えない。共謀しているのか、ただの傍観者なのか。
 杉本さんも同じことを考えているのか、大きく頷いた。
「ああ。もう一度、相沢に連絡とれないか?」
「任意を断られたんだ」
 指紋が出ただけじゃ、黒田と共犯とは言えない。任意の出頭要請を断られたからと言って、力のある組の組長を下手に別件逮捕すると、今度は別の弊害がある。相沢を介して、裏から一ノ瀬に話が聞きたいんだろう。
「ホテルに行ったことは認めたが、他は知らぬ存ぜぬだ。黒田も自供しないし、香港の妻子の居場所も見当すらついてない」
 杉本さんは「だがな」と続けた。
「今日話した時に、一ノ瀬も黒田と同じ情報を持っているような感じだったんだ。ハイライトの件、聞いたか?」
「ああ、神田から」
「今日一ノ瀬と会ったときに吸ってたタバコが、ハイライトだったんだよ」
「へぇ……」
 つまり、エビゾウは一ノ瀬からタバコをもらった可能性が高い。一ノ瀬はエビゾウが誰なのか、知っているはずだ。
 その上、黒田が黙秘している今、手がかりを握っているのは一ノ瀬だけだ。杉本さんがどんな手を使ってでも一ノ瀬とコンタクトを取りたいというのは、よくわかる。
 けれど、ヤクザの組長相手に、杉本さんみたいなお人好しの交渉術じゃ、何も聞き出せないだろうな。
「じゃぁ、それは俺が引き継ぐから、杉本さん休んでよ」
 そう答えると、杉本さんは驚いたように顔を上げてから、苦い顔をした。
「だめだ、俺も行く。いくら相沢がいても、おまえだけじゃ危険だ」
「いや、一ノ瀬を逮捕するわけじゃないし、下手に大人数で行ったら警戒されて終わりだ」
 きっぱりと断ると、杉本さんは不安そうに少し考え込んだ。
 俺は刑事じゃないし、科捜研の人間として捜査に参加しているだけだから、職務以外の単独行動をして何かあったら、俺や相沢、責任者の監督責任だけじゃなく、警察全体の不信につながる。
 でも、ヤクザとは言え、相手はトップの人間だ。そう簡単に警察を敵に回すようなことはしないだろう。
「俺にもそれなりの分別はあるんだけどな、杉本さん」
 その言葉に、杉本さんは仕方なさそうに笑った。