始まりの日

未来 - 17

雨宮陽生

「ちょっと尾形! ああいうこと言い逃げするなよ。絶対に誤解してるだろ」
 尾形の手を振り払って後ろから文句を言うと、ぱたりと足を止めて振り返った。
「誤解じゃないだろ」
 あまりにも当然のように言うから、思わず声を張り上げてしまった。
「誤解以外のなにものでもねーよっ」
「違う、俺は本気だって言ってるんだよ」
「は?」
「だから、そういうことだよ。こんな公共の場で言ってほしい?」
 静かにそう言われて、ハッと周囲を見回した。確かに帰宅時間で人通りが多いのに、しかも声が響く地下通路で変なことを言われちゃ困る。こいつなら、本当に言いそうだ。
「……いや、いい」
 仕方なく引き下がると、尾形は柔らかく微笑んだ。
「まぁ、ホテルに着いたらゆっくり話そう」
 なだめるように言うと、地下鉄には乗らずにそのまま道路の反対側に出てタクシーに乗り込んだ。
 それから5分も走らないうちに停まって支払いをすませると、大通りに面したわりと新しいホテルに入った。オレンジ色と木目のフローリングの明るくて温かみのあるフロントだった。カードキーを受け取ってエレベーターに乗る。
「まだオープンしたばっかりなんだけど、寝るだけならこの辺じゃ一番いいな」
 尾形はそう言って、5階で降りた。後を追って部屋に入ると、シックだけど明るい印象の部屋に大きめのベッドがふたつ並んでいた。ベッドにスペースを割いているからか、部屋が少し狭く見える。
「このでかいのベッドが寝心地いいんだよ。生地もいいもの使ってるんだろうな」
 そう言いながら尾形は冷蔵庫からミネラルウォーターを2本取り出し、壁際の机に紙袋の中身を広げた。
「それ何?」
「肉まん」
「それくらい見ればわかるよ」
 箱入りのもの、紙袋入りのもの、真空パックのものと、7種類の肉まんを取り出して並べる。それからなぜかその肉まんの裏に貼りつている紙を調べていた。
「あった、これだ」
 7種類の中でもこれといって特徴のない肉まんの裏から白い紙を剥がして、肉まんが入っていた白い個袋を確認する。
雅光殿がこうでんなかやまろてん? ちゅうざんろ、か。冷めててもいけるかな」
 そう言いながら肉まんを食べ始めた。
中山路ちゅうざんろだよ。中華街だろ?」
 中華街の通りの名前だ。雅光殿中山路店という店の肉まんなんだろう。
「知ってるのか。やっぱり13年後も中華街はあるんだな」
 尾形は変なところで感心して、その肉まんを食べ始めた。
「その雅光殿って店は知らないけど、通りの名前なら覚えてる。家が近いから」
「そういえばおまえん家、元町だったな。雨宮も好きなの食っていいぞ」
 呑気に言われて俺も中から適当に1つ手に取り、尾形の向かいのベッドに座った。食べるには心地が悪いけど、確かに寝心地はよさそうだ。
「じいさんによく使いっ走りにされてたんだ」
 そういえば、ここに来るきっかけになったのも、じいさんの使いっ走りで乗った電車が事故ったからだったよな……今頃どうしてるかな。
「ははは、あの総理がねぇ」
 じいさんをどういう人間だと思っているのか、尾形は笑った。そして携帯でどこかに電話をして、
「科捜研の尾形だけど―――なんだ日比野か。肉まんの件、何かわかったか?――――ふーん。じゃあ月華樓も雅光殿もハズレか」
 どこか投げやりに話して、たぶん一方的に電話を切った。
 誰に対してもこういう態度なんだと思うと、俺はもしかしたら優しくされている方なのかもしれない。さっきの白衣の人にしても、普通ならかなりありえない扱いだったような気がする。
「さっきの人、尾形の同僚? 尾形のこと教授って言ってたけど」
「そう、後輩。昔大学で心理学の客員教授してたときの教え子」
 その年で、教授? しかも、心理学って、さっきは薬品の臭いがしたのに。
「本当に頭いいんだ」
 気付いてはいたけど、そんなにちゃんとした経歴があるとは思ってなかったから、ちょっと意外だ。
「今頃気付いた? ちなみに、あいつは俺を神かなんかだと思ってる」
 尾形が神って……ありえねーだろ。こいつの周り、まともな人間って杉本さんだけだな。
「同僚で教え子にあんなこと言っていいの? だいたい俺、あんたと付き合うなんて言ってないし」
 尾形はふと肉まんを食べる手を止めて、真剣に俺を見つめた。
 一瞬、心臓がはねた。
「おまえは俺のことが好き、俺もおまえが好き、だから付き合おうって言ってるんだけど」
 そう言うこと、よく真顔で言えるよな。少しくらいもったいぶらないと、真実味がなくなるだろ。
 っていうか、そもそも俺はホモじゃないし。
「だーかーらぁ、俺にはそういう感情ねーよ。尾形といると楽しいけど、たぶん違うよ」
 尾形が呆れたようにため息をついた。
「たぶん、ね。いい加減認めたらどうだ?」
 どうして認めなきゃいけないんだよ。
「やだね。どうせそうやって言ってみんな口説いてるんだろ」
「言っておくけど、俺が自分から口説いたのは初めてだ。ほっといても不自由しないんでね」
 その自信過剰なところとか、どうにかならないのかよ。
「だいたい男とヤッたって気持ち悪いだけだろ」
「さっきは気持ち悪くないって言ってただろ」
「あれは尾形を気持ち悪いと思ってなかったから言っただけだよ。俺は女のほうが好きだし」
「おまえ、童貞のくせによく言うよな」
「童貞にだって好みくらいある」
 売り言葉に買い言葉みたいな感じで言ってから、少し後悔した。尾形と話していると、自分のペースで話ができない。どうしてか、思ってないことまで口にしてしまう。
「へえ。でも食わず嫌いかもしれないし、気持ち悪いか試してみる?」
 尾形は、ニヤリと意地悪に笑う。
「また? 未成年には手を出さないって、何回言ってるんだよ」
「そうだね。『刑法第224条未成年者略取及び誘拐罪』と『第225条の営利目的等略取及び誘拐罪』、『東京都青少年の健全な育成に関する条例、青少年に対する反倫理的な性交等の禁止 第十八条の六』で捕まるかもな」
 淀みなくそう言うと、ミネラルウォーターで残りの肉まんを流し込んだ。
 反倫理的な性行為――まさに、だよな。
「法律にも詳しいんだ」
「雨宮が言ったんだろ、俺は頭がいいんだ」
 尾形はペットボトルを置くと、すっと立ち上がって俺の前に立った。そして、前かがみになって両肩を掴んだ。
 その目が挑発的で、これから何をしようとしているのか、痛いほどわかった。
 心臓が、物凄い速さで打ち付ける。俺はそれを隠すように尾形を睨みつけた。
「だったら、こんな犯罪やめたら?」
「雨宮は被害届なんて出せないだろ。いろんな意味で」
 尾形はいつもよりも少しだけ色っぽく微笑んだ。けれど、その言葉に俺の脳裏に忘れていた現実がよみがえって、鈍く心臓を締め付けた。
「誘拐罪に被害届なんて必要な――――」
 口をふさがれた。尾形の柔らかい唇の感触に、前よりもずっと動揺した。どうしたらいいのかわからなくなって呆然と力の抜けた唇を、尾形に舐められる。それからほんの少し唇を離して、至近距離で俺を見た。
「目くらい閉じろよ」
 低く囁いて、ゆっくりと俺をベッドに押し倒した。尾形の両手が俺の二の腕から滑り落ちて指に絡まる。そして俺の手を握って頭の両脇に置いた。俺の足の間に右ひざを置いて、覆いかぶさるような体制で俺の両手の自由を奪う。
 その行為に、どうしてか嫌悪感なんて微塵もなくて、このまま流されてもいいような気さえしていた。
「抵抗しなくていいの?」
「青少年だから同意の上での行為でも、犯罪になるんだろ」
 嘘をつく。本当は、尾形に抱かれても泣き言なんて言うつもりない。
「詳しいね。それもIQ220だから?」
「違う。弁護士になろうと思ってるから」
「そうなんだ。でも、弁護士資格は戸籍が必要なんだよ」
 真顔でそういうこと言うんだ。俺がこの世界じゃ戸籍なんてないと知りながら。
 そうやって俺が出来ないことを突きつけて、俺の自由を奪うんだ。
「……ほんと酷いな、あんた」
 たぶん、泣きそうな顔になってたんだと思う。
「ごめん」
 尾形は呟くようにそう言って、俺を強く抱きしめた。
 本当に傷つくことを言わないのは、本当に傷つく言葉を知っているから。こんな時に、そうやって俺を傷つけて、精神的に参らせて抵抗できなくさせる、そういうやり方。
 それなのに、この腕の中が温かいのは、どうしてだろう。
 もう一度尾形の唇が俺に重なって、目を閉じた。
 もう、どうでもいい。
 好きとか嫌いとか、2021年に帰るとか、そんなのどうでもいい。考えるのが面倒くさい。
「ん……」
 深いキス。尾形の舌が歯の間に入り込んできて、ねっとりと絡み付いてきた。気持ち悪いと思っていた男同士のキスに、その濃すぎる行為に、不本意にも体が熱くなるのを感じた。