始まりの日

未来 - 15

尾形澄人

 一ノ瀬組の黒田の件は杉本さんと相沢に任せて、科捜研に戻ることにした。科捜研は捜査一課とは別の棟になるから、一度下まで降りる必要がある。その閉まりかけたエレベーターのドアを滑り込んで後悔した。
 松下理事官――俺の実の父親が、眉間に皺を寄せてエレベータのボタンを押していた。
 誰か他に連れていればまだよかったのに、こういう時に限って1人だから嫌になる。
「プロファイリングは進んでいるのか?」
 外から帰ってきたのをわかっているのに聞く辺り、性格の悪さが滲み出ている。誰かが口元が俺と似ていると言ってたけど、ありえないな。
「そっちこそ、もう移動?」
 パンパンに膨らんだポーターの鞄を重そうに持っていた。大きな事件を抱えていながら、所轄の捜査本部にも顔を出さなければならない。それが理事官の仕事だと知っていても、口調が鋭くなってしまう。
「抱えている事件はひとつじゃない」
「あいかわらずお忙しそうだな。松下理事官」
 嫌味を込めた口調に、松下は小さくため息をついた。
「杉本から主犯は深川賢治だと聞いた。おまえが突き止めたんだろう?」
「違うよ、俺をかいかぶりすぎてる。杉本さんが調べたんだ。公安の人間から聞きだしたって言ってたっけ」
「公安?」
「そう、警察同士、仲良くしようねってことだろ」
「……つまり、本部の情報もむこうに流れているということか」
 刑事部はそんなに公安が嫌いなのか。
「それはどうかな。うちが持ってる情報なんて、公安ならとっくに掴んでるんじゃない? まぁ、俺は犯人さえ捕まれば、どっちでもいいんだけど。本来ならそうあるべきだろ」
 くだらない権力の綱引きと責任のなすり合いで捜査が遅れるなんて、バカバカしすぎる。だいたい、そんな幼稚な世界で働くために、こいつが家族を犠牲にしたなんて思いたくない。
「捜査はチームワーク――そう言ってたよな、昔から」
 憤りを押さえてそう言うと、松下は、困ったように俺を見た。
 嫌になる。
 そんな顔で俺を見られても、俺は家族を省みなかった実の父親を認めることはできない。
 エレベーターの扉が開く。俺は逃げるようにエレベーターを降りた。

 俺の母親は俺が5歳の時に離婚して、2年後にアメリカ人と再婚した。恨んでるわけじゃないけど、家族よりも仕事を優先させた父親に、どうしても譲れない意地があるのも確かだ。
 俺は絶対に仕事のために家族を犠牲にしないと、幼いながらに両親の喧嘩を見てそう思ったことを覚えている。思い出したくない記憶だ。

 科捜研に戻ると、研究員が慌しく仕事をしていた。その中から若い男が俺を見つけて、キラキラと目を輝かせて駆け寄ってきた。
「あ! 尾形教授、探してたんですよ! これ、昨夜の事件のプロファイリング資料です。僕のほうでやってみたんで見てもらえますか?」
 日比野冬也ひびの とうや――捜査一課の日比野の弟だ。俺とは科が違うくせに、こいつは俺をこの上なく尊敬している。それは、実は去年までしていた大学の犯罪心理学科の客員教授の時の、ゼミの教え子だったからだ。だから未だに俺を「教授」と呼ぶけど、いい加減やめてほしい。
「教授って言うな。おまえ、他にやることないのか?」
「それ終わっちゃったから、今のところないんですよね。もともとお盆休みでしたし。ていうか教授こそ暇なんですか?」
 自分がジャーニーズ系の、それもジュニアの弟キャラだと分かっている口調と上目遣いで俺を見上げる。
 悪いけど、そういう媚び売る奴には興味ねーんだよ。
「だから教授って言うな。一昨日の朝から正味40分しか寝ていないこの俺が、暇に見えるか?」
 白けた目で見下ろすと日比野の顔が固まった。そうか、改めて計算してみるとこの66時間ほとんど寝てないことになる。どうりで頭がぼーっとするわけだ。
「み、見えません……。俺も何か手伝いましょうか?」
「そうだな……横浜中華街の月華樓って店に行って肉まん買ってきて。大至急」
 適当に思いついたことを言うと、日比野は顔をパッと明るくして、
「わかりました!」
 単純だな。どうして疑問に思わないんだろ。
 颯爽と白衣を脱いでオフィスを出る日比野弟を見送って、自分のデスクについた。一息ついたら頭が痛くなってきた。頭痛薬がどこかに置いてあったと思ってデスクの中を探す。私物用の引き出しの一番奥に見つけて、PTP包装から押し出して、窓際のコーヒーメーカーの煮詰まったコーヒーで錠剤を流し込んだ。
「順調か?」
 背後から声をかけられて振り向くと、俺の上司にあたる科捜研第一法化学科長がマイカップを持って立っていた。ボサボサの髪の毛に無精ヒゲからみると、昨日の事件直後に緊急で呼び出されて、徹夜で鑑定作業をしてるんだろう。
「科長、夏休み返上ですか」
 ポットを持ち上げてそう言うと、科長は「かまわないさ」と言ってカップを差し出した。そこになみなみとコーヒーを注ぐ。
「尾形もやることないならさっさと手伝え」
「あぁ、そうですね」
 ちゃんと鑑定すれば、犯人につながる何かが出てくるかもしれない。
「それにしても一体どういう事件なんだ? 一課の人間が何も喋らないなんてのは初めてだ」
「それは俺にも言えません」
 話すのも面倒だしそう答えると、科長はボサボサの頭を掻いた。
「まぁ、そうだな。松下理事官の統率力はさすがだなぁ。あの荒くれ者の刑事たちにここまでかん口令引けるなんて」
 科長はそう言ってコーヒーを一口飲んで、まずそうな顔をする。俺は何も答えずに、紙コップに残ったコーヒーを飲み干して、ゴミ箱に捨てた。そして、そのままデスクに戻ろうとしたとき、思いついたように科長が声をあげた。
「あ、そうだ。おまえ誰かに似てると思ってたら、松下理事官に似てるのか」
 また、か。そんなに似てるか?
「あんなに眉間に皺寄ってませんよ」
「でも口元とかそっくりだぞ。性格悪そうな感じが」
「それ松下理事官にも言っておきます」
「ははは、冗談だよ。ま、今回おまえを指名してきたのも松下理事官だしな。ちゃんとやれよ」
 そう言うと科長は隣の研究室に戻っていった。
 あいつが俺を指名してきたのか。俺はてっきり杉本さんが入れてくれたのかと思ってたけど。何考えてるんだろう。息子と一緒じゃ普通やりにくいだろ。
 そんなことを考えながら窓の外を見下ろした。炎天下の歩道に日比野弟が走っているのが見えて、ちょっと笑えた。
 時計を見ると、2時になろうとしていた。

杉本浩介

 本庁から覆面パトカーを走らせると、すぐに信号に捕まってしまった。ただでさえ盆休み中で交通量が少ない静かな都心だ。騒音が止んで、車内に妙に気まずい沈黙が立ち込める。ラジオでも付けたい気分だ。
 尾形から「公安の相沢って人間が一ノ瀬と直接話せるらしいから一緒に行ってほしい」と言われたのは、つい15分前。公安に手柄を横取りされるとかそういう心配をしたのかもしれないが、あいかわらず頼むだけ頼んで電話を切った。それから10分後に駐車場に行くと、今隣に座っている相沢という男が待っていた。
 警察官になって13年になるが、公安の刑事とはほとんど話したことがない。仕事の話などしてくれるはずがないし、かといって急に趣味はなんですか、なんて聞くのもどうかと思う。そこで口をついて出たのが、
「アンパンマンのキャラクターでしりとりできると思うか?」
 何か話題をと思ってのことだったが、我ながら情けない。けれども、相沢と名乗った公安の刑事は俺のくだらない話に付き合ってくれたようだ。信号が青に変わってから、
「……それは、敬称をつけなければならないんでしょうか」
 律儀にそう聞いてきて、思わず噴き出してしまった。
「ククッ……君、意外と素直なんだな」
 相沢は、少し微笑んだような顔のまま俺を一瞥した。睨んだつもりなのかもしれない。
「いや、ちょっと前に尾形に教えてもらったんだ。4歳の子供に言われたらしい」
 4歳の雨宮陽生に。
「大人をなめてますね」
「やっぱりそうだよなぁ。でもさ、子供にアンパンマンのDVDを見せると、テレビから2メートル離れて正座して見始めるんだよ。うちに5歳と3歳の子供がいるんだけどな。凄いと思わないか?」
 そう言いながらちらりと見た横顔は、自己紹介したときと同じ柔らかな笑みを浮かべていた。別に話すことがないから話した話題だったが、特に返答はなかった。
 公安の刑事は無駄話すらしないと聞いたことがある。諜報活動に支障が出るから、自分の声を覚えられるのを嫌っているらしい。相沢はどうか知らないが、どうにも掴みづらい男だ。
 次に止まった信号が青になって、アクセルを踏む。
「尾形とは、どこで知り合ったんだ?」
「彼が話していないなら、私が言う必要もないと思いますが」
 静かにそう答えた。表情も変わってないんだろうな。
「なるほど、君は尾形を認めてるんだな」
「……否定はしませんよ」
 つまり尾形の意思を尊重している、そう解釈することにした。
「じゃぁ、一ノ瀬との関係は? 指定暴力団の組長と公安刑事がつるんでるとなると、いろんな人間が目の色変えて探ってくる」
「脅すつもりですか」
「いいや、そんな馬鹿なことはしない。俺は今回の事件が解決すればそれでいい。ただ、君が心配なだけだよ」
 本当のことを言うと、相沢は少しだけ笑った。
「出世しないタイプですね」
「君は、そういうのを利用してきたから、その若さで課長なんだろう?」
 皮肉を言ったつもりだったが、相沢は表情を変えずに携帯電話でどこかに電話をし、これから行くホテルの名前と部屋番号を相手に告げた。
 無視するとはいい根性をしてる。
「どうしてわざわざホテルの一室をとった?」
 一ノ瀬に会うために、相沢はホテルの部屋を指定していた。
「相手の指定した場所では盗聴されている恐れがある。それに、暴力団の組長と公安の刑事がつるんでるのが知れると厄介なんですよね」
 それなら、どうして俺が同行することを受け入れたんだろうか。どうせ答えないだろうから聞かないが。
「本当に来るのか?」
 相沢はわずかに微笑んだ。
「彼は、来ますよ」

 それからすぐに小さなビジネスホテルに到着し、鍵を受け取って部屋に入った。ベッドとテレビ、壁際にデスクスペースのある、ありふれたシングルルームだった。そして、5分後にノックもなくドアノブが回された。鍵を掛けてあるから開くはずがない。
 窓から外を眺めていた相沢がドアに近寄り、ドアスコープを覗く。そして鍵とチェーンを外してドアを開けた。 
「どうぞ」
 冷静にそう相手を部屋の中に導く。どこかのITベンチャー企業の社長のようないでたちの男が、数歩足を踏み入れて鋭い目で室内を見回した。
 一ノ瀬隆英いちのせ たかひで34歳、その若さで皆川会の中でも1、2を争うほどの組を率いている男だ。背格好は尾形と同じくらいか。
 そんなことを思っていたら、男は、一言目にとんでもないことを言った。
「なんだ、その気になったかと思ったら男と一緒か。まぁ3Pも悪くない」
 思わず相沢をまじまじと見てしまった。相沢は特に表情を動かすことなく、一ノ瀬を見ていた。そして、ゆるりと口を開く。
「そういう趣味があるのか」
 その言葉の「そういう」が3Pを指すのか、それとも男とのセックスを指すのか、いまいちよくわからない。いや、これは余計な詮索だ。しないほうがいい。
「ないな。独占欲が強いんでね」
 ……3Pの方だったのか。相沢は尾形ともそういう――ゲイ的な関係で出会ったのだろうか。というか、相沢とこの一ノ瀬はどういう関係なんだ。
「で? そんな話をしがしたいわけじゃないだろう?」
 一ノ瀬はそう言いながら、スーツの胸ポケットからタバコを取り出し、火をつける。高級そうなスーツに似合わないハイライトだ。
「黒田は元気か?」
 相沢のその言葉に、一ノ瀬はニヤリと笑った。そして悠然とタバコをふかして、答える。
「そう言えばここ最近会ってないな」
「知ってて暴走させているのか」
「暴走させた方が、楽な時もある」
「なるほど」
 ちょっと待て、なるほどって、どこがなるほどなんだ。
 話の展開についていけない。相沢を見ると、俺を見てわずかに目を細めた。任せておけ、とでも言いたいのだろう。確かに、相沢のほうが一ノ瀬については詳しいらしいし、とりあえずここは任せることにしたが、どうにも落ち着かない。
 それから相沢は小さく微笑んで、なぜか俺には見当もつかない言葉を発した。
「その口ぶりじゃ、黒田が深川とつるんでるのも知ってるな」
「なんでもお見通しなんだな、公安さんは」
 その点については、一ノ瀬に同意したいところだ。その上、口ぶりだけでそこまで見通すとは、相沢は一ノ瀬とはかなり仲良しさんのようだな。
「もう一つ、公安が掴んでいることがある。ネクシス・ホールディングスからアメリカの口座に多額の振込みがあったそうだ。FBIが犯罪に関与してるとみて凍結したんだってね」
 おいおい、ここでその話をするってことは、
「へえ、それを解除するってわけか」
 驚いた。この相沢という刑事にはそこまでの権限があるんだろうか。それとも、ただ騙しているだけなのか。相沢の表情は相変わらずで、その真意は読めなかった。一ノ瀬も同じように思ったのか、少しだけ考えるように口をつぐんだ。
 相沢はこういう交渉を、何百回としてきたのだろう。だから表情が顔に出ないようになったのかもしれない。
「ありがたいが、そんな金じゃ引き換えにできないくらい、黒田は捨てがたい存在でね」
 一ノ瀬はその条件を飲まなかった。騙していると判断たのかもしれない、そう思ったが、相沢は違う推測をしたようだ。
「……深川の金を横取りするのか」
 その言葉に耳を疑った。つまり、深川が強盗した金を一ノ瀬が横取りすると言いたいのだろう。だから凍結された口座の金などいらないのだろう、と。
 相沢のその問いに、一ノ瀬は眉ひとつ動かさずに、うっすらと笑みを浮かべただけだった。それは、肯定とも受け取れる反応だ。
「深川? あいつはそんなに金を持ってるのか。知らなかったな」
 腹が立つほどわざとらしい口調だ。一ノ瀬には深川の計画が耳に入っているのだろう。けれどもここで一ノ瀬を連行するのは得策じゃない。一ノ瀬ほどの大物を警察に呼ぶとなると、その余波は相当なものだ。暴力団の内部抗争に発展しかねないし、深川を刺激しないとも限らない。まずは、黒田の居場所を聞いて黒田から事情聴取するのが先決だろう。
 そんな警察の思惑すら見抜いているように、一ノ瀬は余裕の笑みを浮かべた。デスクスペースのプラスチックの灰皿にまだ長いタバコを押しつぶす。そしてその隣にあるホテルのメモ帳を1枚とって、ボールペンで走り書きし、相沢に渡した。何を書いたのかは見えないが、おそらく俺には言えないような内容なんだろう。
「これでどうだ?」
 相沢はそれに目を通すと、小さなため息をついた。安堵とも落胆ともつかない微妙なため息だ。
「…………わかった」
 静かにそう答える相沢を、一ノ瀬は満足げに笑みを浮かべて眺めた。
「取引成立」
 どんな取引なのかは俺には関係ない。黒田の場所がわかればそれでいい。相沢は自分が困るような事態に陥るほどの馬鹿じゃなさそうだから、大丈夫だろう。
 それから一ノ瀬は携帯でどこかに連絡をとりはじめた。
「この借りはいつか返す」
 その隙に小声でそう言うと、相沢は口角をあげた。
「これは俺が尾形に返した借りですよ」
 そう言うと、手に持っていたメモ用紙を4つに折って灰皿の上で燃やした。そこまで隠したい機密事項が一体何なのか、少し気になった。
「渋谷のゴールドフィッシュっていうクラブに呼んだ。あとは好きなようにしろ、刑事さん」
 電話を終えた一ノ瀬が、俺にそう言った。まるで相沢が俺のために話をつけたのだと知っているかのような態度だ。
「俺は話があるんで残ります。あとは、お願いします」
 相沢が小さく頭を下げた。威張っているだけかと思っていたが、どうやらそれなりの常識はあるらしい。
「わかった。気をつけろ」
 相沢に言い置いて、俺は部屋を後にした。エレベーターの中で本部に連絡をとる。黒田を別件逮捕する手順を整えた。