始まりの日

未来 - 12

尾形澄人

 芝公園にある新しい高層ビルの24階にあるゴージャスなロビー。置いてあるソファもすわり心地がよくて、日比野を待っているわずかな時間で眠りそうになってしまった。それを遮ったのは、雨宮から電話だった。
「どうした? 大丈夫か?」
 朝、あれほど涙を流したんだから大丈夫なわけないかもしれないと思ったけど、雨宮は意外と元気そうに、
『ああ、もう平気』
 そう言って、照れくさそうに笑った。雨宮の声に、疲れが癒されたような気がした。
『それよりさ、ちょっと話したいことがあって』
 そう雨宮が言ったとき、エレベーターから日比野が降りてくる姿が目に入った。
「悪い、今ちょっと手が離せないんだけど」
『今日、会えない?』
 会う? 電話じゃだめなのか――何か、思い出したのかもしれない。
 雨宮と待ち合わせの約束をして電話を切ると、きょろきょろと俺を探す日比野に歩み寄った。
「どうも」
 日比野は俺に気付くとを心底嫌そうな顔で睨んで、そのまま無言でフロントに向かった。そして、IDを見せて責任者を呼び出す。すぐにフロントから30代の男が出てきて、従業員ルームに通された。
「どういったご用件でしょうか」
 フロントサービスマネージャーと名乗ったその男は、接客業らしい丁寧な物腰でそう切り出した。
「詳しいことはお話できませんが、昨日このホテルを利用した客の中に犯罪に関与している人間がいた可能性がありますので、捜査させていただきたいんです。これが、捜査令状になります」
 日比野は令状を広げなら早口で説明する。そんなことは後でいいくらいだ。もう10時半を回っている。
「すみませんが、ホテルの客室清掃をストップしていただけませんか?」
 割り込んで言うと、マネージャーが困ったように眉を寄せた。
「え、それはちょっと……お客様がチェックインされる時間までには清掃を終わらせなければなりませんので」
「じゃ、西側の部屋だけでも」
「西側?」
「そう、容疑者は西側の部屋を使っていたと思うんですよ。昨日の客の中に西側の部屋を指定した人はいませんでした?」
「あ!」
 何かを思い出したようにマネージャーが声を上げ、日比野が期待に身を乗り出した。
「いたんですか?」
「いえ、同じ事を先ほど高校生くらいの方にも聞かれまして」
 雨宮だ……ここに来てたのか。たぶん俺と同じ推理をしたんだろうな。
 日比野が思いっきり顔をしかめて俺を見た。「高校生」と聞いて、日比野も雨宮だと勘付いている。その視線を無視して、マネージャーに部屋を確認するように頼むと、彼は早足で部屋を出て行った。
「高校生のことは、上に報告するなよ」
 声を抑えて言うと、日比野は俺を睨んだ。俺を見る度に睨んでるからもう効果ないよ、それ。
「なんで?」
「あいつは関係ない。ただの探偵きどりだよ」
「そんな奴に勝手に動かれちゃ、警察は迷惑だね」
「どこまでやったら迷惑かは、わかる奴だ」
 雨宮はバカじゃない。警察を信用してるかどうかは別として、俺に迷惑をかけるようなことはしない。
 日比野は呆れたように小さくため息をついた。
「……あんた、あのガキとどういう関係なんだよ」
「うーん……同居人、かな」
 恋人と言いたいところだけど、まだそこまで進んでいない。
「げ、あんたと一緒に住んでるのかよ。かわいそうだな……」
 本気で嫌そうな顔をしてそう言った。何を想像したんだ、こいつは。
 会話が途切れたところで、ちょうどマネージャーが部屋に入ってきた。
「お待たせしました。いましたよ、刑事さん」
 マネージャーは明るく言いながら、ノートパソコンの画面を開いたまま差し出した。
 顧客情報がカルテのように整理されているんだろう。
「佐藤健一、男か。ありがちな偽名だな。何号室に泊まったんですか?」
「3103号室です。清掃はまだ入ってませんでした。これがその部屋のカードキーです」
 言いながらホテルのロゴが入ったカードキーを差し出した。
「日比野、鑑識呼べ。それから杉本さんに防犯カメラの映像提出の令状とるように連絡」
「自分でやれよ」
「何か言ったか?」
 ジロッと見下ろしてやると、日比野は小さく舌打ちした。臨時捜査員の俺から本部に報告するよりも、これが本業の日比野から報告したほうがいいに決まっている。日比野もそれがわかっているだけに、俺に命令されるのが嫌に違いない。
「あの、警察の方はできれば裏の従業員通路から入っていただきたいんですが」
「わかったよっ」
 日比野は背後から聞こえたマネージャーに怒鳴るように返事をしながら、携帯を耳に当てた。俺より1歳年上のくせに、大人げない奴だな。
 対応は日比野に任せて、エレベーターで31階に向かう。途中、清掃係とすれ違いながら白い手袋をはめて、3103号室のドアにカードキーを差し込んだ。
 入って真正面にでっかい窓のある、明るいツインルームだ。ベッドは両方とも使った形跡が無い。おそらく自分の仕事だけして帰ってしまったんだろう。まあ、あの現場を見た後に優雅にくつろいでたら、悪趣味すぎる。
 窓からすぐに雨宮邸が見つかった。真正面、遠くに純和風の建物が肉眼でも見える。ここからだったら、少し性能のいい双眼鏡を使えば開けっ放しのカーテンの部屋の中が見えそうだ。
 一通り部屋をチェックすると、ここが見つかるとは思ってなかったのか、いろいろと参考になりそうなものが残っていた。大量のタバコの吸殻はマルボロだ。ミニバーの上にビールの空き瓶、そしてゴミ箱をチェックすると、ティッシュと白い丸い紙が出てきた。
「なんだコレ……」
 白い半透明の直径10センチくらいの紙。……あぁ、中華まんの底についてるあの紙だ。犯人はこんなところで悠長に中華まんなんて食ってたのか。なんかムカつくな。
 それから小さな赤いマッチ箱が出てきた。足取りを追うには絶好の収穫物だ。
「月華樓本店……神奈川県横浜市中区山下町21ってことは」
「横浜中華街ね」
 なるほど、香港とつながりつつある、って。
「いきなり背後に忍び寄るな。驚くだろ」
 言いながら振り返ると、紺色の地味な作業着を着た派手な顔つきの女――神田みちるが入り口に立っていた。後ろにいる男3人が彼女の部下のように見えるのは、彼女があまりにも堂々としているからであって、彼女の地位が高いからじゃない。
「全然驚いてないじゃない。それより現場保存する前にいろいろ触りまくるの、やめてくれない?」
 神田はうっすらと笑みを浮かべながらそう言うと、持っていた機材をドサっと床に置いた。
「はいはい、もう終わりました」
 俺はマッチ箱を神田に渡して、さっさと部屋を出ることにした。こいつと話すと、どんな会話でもなぜか必ず恋愛話に展開するから、侮れない。今の俺には、たぶん最も危険な女だ。
「あら、もういいの?」
「ああ。大体わかったから」
「そう残念。ま、鑑識で手に負えないものがあったらそっちに回すから、よろしくね」
「りょーかい」
 ここで採取した指紋が前科者と一致すれば話は早い。神田が担当ならすぐにわかるはずだ。

雨宮陽生

 六本木の交差点にある、ピンクと白の日除けがやけに目立つ喫茶店。13年後には形を変えて存在しているこの店の前で、花壇のレンガに座って待つことにした。携帯のディスプレイの右上の時計は11:58。花壇の上の時計台はそれよりも1分進んでいた。

 麻布から、東京タワーの近くにあるその高層ビルに行くと、その上にパークタワーウェストホテルという高級ホテルが入っていることがわかった。でも、俺みたいな高校生に宿泊客のことを教えてくれるはずはない。
「だから、昨日の予約客に西側の部屋を指定した人間がいるかいないかだけでもいいんです」
「申し訳ありません。お客様のことをお話することは、私どもにはできかねますので……」
 というやり取りを10分ぐらい繰り返して、最終的にはマネージャーまで出てきて、やっぱりダメで、諦めてホテルを出た。それから尾形に連絡をとると、12時に六本木交差点で、という話になって、少し時間があったから昼飯にマックを食べて今に至る。
 その間、麻布で会った男の言ったことが、ずっと頭の片隅を陣取っていた。

「待ったか?」
 ふいに頭上から声がして見上げると、汗をかいてスーツのネクタイを緩める尾形がいた。急いで走ってきたのか、少し息が上がっている。そのいつもの意地悪な笑顔に、なぜかほっとした。
「いや、俺も今来たところ」
「よかった。とりあえず、カラオケボックスがいいかな」
 尾形は周囲を見回しながらそう言った。密室で誰にも干渉されないし、この昼時でも待たずに入れる数少ない場所だからなんだろう。
「そうだね」
 そう当たり前の返事をすると、尾形はチラリと俺を見て口角を上げる。そして、道路の向かい側にある大手のカラオケボックスに向かって歩き出した。
 尾形の背中を見ながら、俺はひどく心が落ち着いていることに驚いた。そして、少しだけ恐くなった。
 どんなに信頼しても、裏切られる可能性は0にはならないって知ってる。だから、割り切らなきゃいけない。俺は尾形を信じているわけじゃない。いつか、もしかしたら利用されて裏切られるかもしれない、そうどこかで構えておかないと、傷つくだけだ。
 そう考えて、昨日のキッチンのカウンターに置いてあった尾形の財布を思い出した。尾形は、どうして俺を信用できたんだろう。見ず知らずの人間を、それも「タイムスリップ」なんて馬鹿げた話をした俺を家にあげて、住まわせて、洋服や家具まで揃えてくれて。やっぱり変な奴だ。

 店に入るとすぐに部屋に案内された。4人座れるかどうかというL字のソファに座ると、尾形は小さくため息をついいて、ドリンクメニューを広げた。
「捜査、何か進展あった?」
 尾形は手をとめて俺の顔を見ると、にんまりと笑った。
「おまえ、芝公園のホテルに行っただろ」
 そっか、尾形も俺と同じことに気づいたんだ。
「尾形も行ったんだ」
「悪いけど、俺もIQ200はあるみたい」
 他人事みたいにそう言って、再びメニューに目を向けた。
 やっぱり。頭いいと思ってたんだ。
「じゃぁ、間に合った?」
 客室清掃が入ってたら、証拠がなくなってしまう。
「ああ。いくつか手がかりも見つけた」
「手がかりって?」
「後で話すよ」
 尾形はメニューを置くとソファーの背もたれに深く身をゆだねて、小さく、優しいような困ったような笑みを浮かべた。
「それより、俺に何か用があったんだろ?」
 俺がわざわざ呼び出した理由がわかってるんだと思う。
 今の俺が見た光景じゃなくて、4歳の時の記憶を話そうと思ったから、俺は尾形を呼んだ。直接会って話したいと思った俺の意思を、尾形は尊重してくれたんだ。
 小さくうなずいて、その記憶を話した。
「……父さんと母さんが殺された時、俺はベッドで寝てた。眼が覚めると父さんが誰かと話していた。それから急に父さんが何も言わずに俺を抱え上げた」
 考えすぎると辛いから、できるだけ感情を抑えて淡々と。
「すぐに拳銃の、たぶんサイレンサーで音を消した銃声がして、父さんが倒れこんだ。父さんを撃った奴が、廊下でもう1人と、たぶん母さんを殺した奴と話していた」
「なんて言ってたかわかるか?」
「英語だった。犯人は男2人で1人はたぶんネイティブ。もう1人は日本語訛りの英語を話してて、そいつが『子供は殺すな』って言ってた。ネイティブの奴が『報酬は円か、香港ドルか?』って聞いて『香港ドルだ』ってもう1人が答えていた。それから『完了』って言って、ベランダに出て庭に降りてった」
  尾形が驚いたように俺を見た。
「4歳で英語話せたのか?」
「少しね。意味は少ししか理解してなかったけど、映像みたいに頭に残ってるから、今ならその意味がわかる」
「……そんなことができるのか」
 今までこんな風に俺の能力を見せると、みんな同じような反応をした。でも、尾形には嫌悪を感じないのは、どうしてだろう。
「顔を見たよ、両方とも」
 尾形はさらに驚いたように俺の目を見た。
「な、に?」
「覚えている」
 そう付け足すと、尾形は一点を見つめてじっと考え込んだ。
 たぶん、俺のことを考えているんだ。俺が目撃者として警察で証言すれば身元が問われる。名前や住所、学校、何よりも、どうしてあの場所にいたのか。でも、俺には戸籍もなければ住所もない。適当に嘘をついてもすぐにバレるだろうし、正直に言ったところで信じるはずもない。つまり、俺の証言は認められないどころか、俺の存在自体に疑いが向けられる。そうなったら、元も子もない。
 きっと尾形は俺を警察には連れて行かないと思う。そのかわり、俺は尾形の捜査に協力するつもりだし、自分でも犯人をつきとめようと思っている。
 それを尾形に言おうと口を開きかけたとき、
「わかった」
 尾形が、きっぱりとそう言った。そしてスーツのポケットから携帯電話を取り出し、素早くメールを打つ。
 わかったって……。
「どうするの?」
「ちょっとツテがある。そいつがどう出るかわからないけど、とりあえず待ってみよう」
 そう言って、携帯をテーブルに置いた。そして、何を思ったのか俺にドリンクのメニューを渡す。
「は?」
「ワンドリンク制だから、何か選べ」
 この状況で……。
「じゃ、コーラ」
「了解」
 尾形はすっと立ち上がって、壁に備え付けた電話でアイスコーヒーとコーラを注文した。
 この妙に呑気な態度はなんなんだろう。尾形は注文を終えると、普通にカラオケに来たみたいにドカッとソファーに身を投げて、胸ポケットからタバコを取り出して、火をつけた。
「タバコ、吸うんだ」
「あぁ、たまにね。おまえはだめだぞ、未成年」
 そう言いながら、ソファにもたれて脚を組む。
「ふーん、意外と真面目なんだな」
「そりゃぁ、これでも警察関係者だからね。未成年には手を出さない」
 ニヤリと笑って、冗談っぽく意味深なことを言う。
 脳裏にあの男の顔が浮かんだ。尾形は、俺がそういう経験ないって知ってて、からかって遊んでるんだと思うとムカついた。
 だから、少しだけ変な意地が生まれて、買い言葉みたいに。
「……さっき、麻布であんたと寝たって人に会ったよ」
 たぶん、俺がこんなこと言うなんて、想像すらしてなかったのかもしれない。
 尾形のタバコを持つ手が止まって、しまった、とでも言うように尾形の目が俺に向いた。
 その態度が妙に癇に障った。
「同業者には手を出すんだな」
 なんで笑っちゃったんだろう。本当はこんなこと言うつもりじゃなかったのに、顔はどうしてか笑顔になった。
 けれども尾形はタバコの灰を灰皿に落としながら、無表情にどうでもいい事のように。
「知らなかったんだよ、あいつが刑事だなんて」
「知らない人間と寝るんだ」
 尾形が誰と付き合おうが、誰とセックスしようが俺には関係ない。知り合ってまだ2日しか経っていない俺が、こんなふうに咎めるように言う権利なんてどこにもない。そう頭では分かっていたのに、口が勝手に動いた。
 尾形は何も言わずに煙を吐き出して、まだ長いタバコを揉み消す。
 立ち込めた沈黙に耐え切れず、思わず目を伏せた。
 尾形は、たぶん怒ってる。
 自分の言ったことに後悔した。言わなきゃよかったと、初めて心から思った。
「俺が誰と寝ようが、おまえには関係ないだろ」
 また、だ。
 思っていたことを言われると、やっぱりグサリと刺さる。
「安心しろ、おまえには手は出さないから」
「当たり前だろ」
 言いながら、そうじゃないと思った。こんなことを話したかったんじゃない。
 じゃあ、何を? 俺は、何を期待していた?
 一瞬そう考えかけて、これ以上深入りしないほうがいい、と思考にブレーキがかかった。
 他人に何かを望むなんて、ムダなだけだってことくらい知ってる。
 心に引っかかった何かを考えないようにごまかして、テーブルに積み上げられた分厚い曲リストを捲った。別に何か歌おうとかじゃない。ただ、この気まずい空気から逃げたかっただけだ。
 パラパラとあてもなくページを捲っていると、尾形が小さくため息をつくのが聞こえた。
「雨宮さぁ」
 顔を上げると、尾形がタバコの煙を吐き出して困ったように笑った。
「もしかして気持ち悪いとか思ってる?」
 たぶん気持ち悪いとは――。
「思ってねーよ」
 正直に言うと、尾形が少し驚いたように真顔になって、それから小さく笑った。そしてゆっくりと組んだ足を直して、身を乗り出した。
「ふーん……じゃぁ、試してみる?」
「は?」
 気が付くと、唇が触れていた。
 それがキスだと気付いたとき、すーっと波が引くように、尾形の顔が離れた。

 ほんの数十センチ先の距離で、尾形は呆然とする俺を見つめ、挑発的に笑う。そして、もう一度、唇が重なる。顎を軽く押さえられて、唇の間から舌が滑り込んできた。
 あまりの唐突さに動けなくなって、その感触を生々しく感じた。
 タバコの味がした。

 瞬間、携帯のバイブレーションの鈍い音が、妙に大きく響いた。
 ビクッとして我に返った時には、すでに尾形は俺から離れて、テーブルの上で震えている携帯を拾っていた。
「はい――ああ、連絡してくると思ってたよ」
 冷静な声。
 呆然と、それを見つめた。
 耳の奥で、心臓の音が鈍く打つ。
「身元を明かさないことが条件だ――それだけだ。――わかった、15分後に」
 尾形は事務的に話して、電話を置いた。