始まりの日

未来 - 10

尾形澄人

 真夏でもエアコンのない非常階段は、じっとりと生温かくて気持ち悪い。本庁13階のその生ぬるい非常階段に座り込んで、携帯でメールを打った。
 半年前に教えられたアドレスだけど、エラーにならなかったから変えてないんだろう。あいつもあの事件を調べているだろうから、この時間でもここにいるはずだ。だとしたら、上から降りてくる。
 数分後、コツコツと落ち着いた足音が響いた。
 来た。
 俺のすぐ後ろでその足音が止まる。そして、小さなため息が聞こえた。俺は振り返らずに、座ったまま床を見つめた。
「来ると思ったよ」
 すぐ背後で、久しぶりに聞く声が響いた。半年前と変わらず、その声色からは感情が読めなかった。
「俺は来ないと思ってたけどね」
 立ち上がって振り返ると、相沢司あいざわつかさは眼鏡の奥で小さく微笑んだ。誰にでも平等に向ける微笑みだ。
「こんなところで俺と会ってるのがバレたら、やばいだろ」
「さあ?」
 相沢は微笑みを崩さずにそう答えをはぐらかした。
 29歳と言う割には若い外見に、背筋がピンと伸びて、いかにも誠実そうだ。おまけに眼鏡が似合う。けれど、その微笑みの真意がどこにあるのかはわからない。
 生まれつき上向きの口角のせいで穏やかな印象を受けるこの表情が、彼のデフォルトなのだと気付いたのは、2回目に会ったときだったか。この顔のまま、平気で人を騙すんだろう。たぶん相沢司と言う名前も偽名だ。
 警視庁公安部。警察組織の中でもっとも謎につつまれたその組織に、相沢が所属していると知ったのは、彼と出会って何度かセックスをした後だった。六本木で出会って体だけの関係になり、その2ヶ月後に本庁のエレベーター内で偶然会ってしまった。そして、お互いの身分を知った。
 公安部の人間だと知っていたら、俺は手を出していない。相沢も俺が警察関係者だと知っていたら、誘いにのらなかっただろう。おそらく、相沢が俺と関係をもってしまったことは彼のキャリアの中で最大のミスにあたるかもしれない。
「で、何か用があるんだろ?」
 ある意味無表情とも言える柔らかい顔のまま、相沢はそう話を促した。俺の用件はわかっているはずなのに。
「公安でも昨日の事件、追っているんだろ。情報がほしい」
 犯人が釈放を要求している受刑者は、全員公安が逮捕した人物だ。情報収集に長けている公安が、何も掴んでいないわけがない。
「公安が外部に情報を流すわけがないだろう」
「じゃぁ、どうしてここに来た?」
 話すつもりがないなら、最初から俺の呼び出しに応じるわけがない。
 沈黙が返ってきた。涼しい顔でまっすぐ俺を見る。心の底では何を考えているのか読めない、一瞬の隙もない男だ。
 まぁ、だからこそその顔を快感に歪ませる楽しみがあるんだけど。もしお互いの仕事を知っていなかったら、まだ続いていたかもしれないな。
 そんなことを考えていると、すっと、相沢が目を細めた。
「門の前で、おまえが連れ去った男は誰?」
 雨宮のことだ。
「見てたのか」
 監視カメラの映像がそのまま公安にも届いていたんだろう。
「公安があの現場を張っていなかったと思うか。捜査員が必死で彼の身元を調べてる」
 なるほど、その手柄がほしいってわけか。いくら公安とはいえ「存在しない人間」の身元がわかるわけがないから手こずっているんだろう。けど、俺もそう簡単に教えるわけにはいかない。まぁ、本当のことを言ったところで、信じるはずもないし。
「あいつは雨宮雅臣の昔の教え子だよ。事件に関係はない」
 そう嘘をつくと、司はまた小さく微笑んだ。信じているのか、それとも疑っているのか、それすらわからない。プライベートでもこうなのだから、感心する。
「なるほど」
 何を納得したのか、呟くように言う。そしてくるりと俺に背を向けて、
深川賢治ふかがわけんじを中心とした新しいグループが、勢力を増している」
 単調に、それだけ言い置いて、階段を上って行った。バタン、とドアが閉まる音がして、足音が聞こえなくなる。静かになった非常階段に、俺のため息が響いた。

 深川賢治47歳――六本木に本拠地を置く指定暴力団・皆川会の幹部。気性が荒いのに、頭がいいからたちが悪い。警察では名の知れた人間だ。でも右翼との関係が深い人物だから、捜査一課の容疑者リストには掠りもしていない。どうして公安は今回の事件の容疑者を、その深川に断定したのだろう。
 だいたい、深川が犯人だとすると本当の目的はなんだ? 右翼とは接点のない極左の受刑者を指名したのは、自分に目を向けさせないためのカモフラージュか、それとも他に何か目的があるのか。
 もう少し聞けると思ったけど、そう甘くはなかったな。

雨宮陽生

 酷い顔だ……。
 洗面台の鏡に映った顔は、泣きはらして腫れた目が、真っ赤に充血していた。
 けど、しっかり泣いてシャワーを浴びたら、少しは気が楽になった。
 尾形は仕事に行くと言って1時間前にマンションを出て行った。引き止めていたのは、俺だ。科捜研の人間が、あの事件の直後に仕事しなくていいわけがない。けれど尾形は玄関のドアを閉めるまで、ずっと俺を気遣っていた。
 いきなり優しくされたら、調子が狂う。だから、俺はもう立ち直ったふりをしてみたけど、この顔じゃぁ説得力なかったよな。そう思うと、ちょっと笑えた。
 大丈夫、笑える。
 やらなきゃならないことは、まだある。尾形の口ぶりだと、犯人はまだ見つかっていないみたいだったし。
 昨日買ったばかりのジャージを着るていると、来客を告げるチャイムが鳴った。インターホンのモニターに、杉本さんが映っていて、急いで玄関のドアを開けると、杉本さんは驚いたように俺を見た。
「思ったよりも元気だな」
「そうですか?」
 この顔のどこが元気そうなんだろ。
「尾形に食料と携帯をおまえに届けろって言われてね」
 杉本さんは小さく微笑んで靴を脱いだ。たぶん、何度もここに来たことがあるんだと思う。迷わずにダイニングに行くと、持っていたスーパーの袋をテーブルにドサッと置いた。そして、ポケットから黒い携帯電話を出して俺に差し出した。
「これ、ないと不便だろ。あいつの名義らしいから好きなだけ使いまくれ。俺と尾形の番号は登録してあるから」
 にやりと笑ってそう言った。それから袋の中身を手早くテーブルの上に広げる。
「尾形からの伝言だ。『何が食いたいかわからなかったから、一通り買った。好きなものを選べ。食べないと始まらないからな』とのことだ」
 そう言いながら、7~8人分はありそうな量の食料とペットボトルのお茶を出した。和洋中いろいろな弁当や惣菜で、すぐに食べられるものばかりだった。なぜか割り箸が20膳くらい入っていて、尾形にせかされた店員が慌てて入れる光景が目に浮かんだ。
「ありがとうございます」
 食欲はあまりなかったけど、その中からサラダうどんを手にとって座った。杉本さんはそれを確認して、時間が気になるのかカウンターの上にあるデジタル時計を見た。つられて見ると、8時を過ぎたところだった。あれから12時間しか経っていないんだ。
「犯人、まだ捕まってないんですね」
「ああ。プロの犯行っていうことはわかったけどね。足跡とかいろいろ残ってたけど、どれも犯人を特定できるようなものじゃなかった。そもそもSPすら簡単に気絶させることができるんだ、かなり手馴れた人間の仕業だ」
「脅迫した人間が、プロに依頼したってこと?」
「まだそこまではわからんな。悪い、そろそろ戻らなきゃいけないんだ」
 申し訳なさそうに苦笑した。俺が立ち上がると、杉本さんは早足で玄関に戻る。
「もしかして、俺にこれ届けるためだけに来てくれたんですか?」
「いや、俺の車を家に戻さないといけないからな。霞ヶ関は駐車場代がバカにならない。それで、尾形と入れ替わりに携帯と食料を渡された。ちゃんと食えよ」
 早口でそう言いながら靴を履くと、じゃ、と軽く笑ってマンションを出て行った。これからすぐ仕事なんだろう。
 なんか、俺ってかなり呑気じゃないか? 尾形や杉本さんを見てると、悠長にうどんなんて食べてる場合じゃないような気がしてきた。
 せっかく食料を買ってきてもらったけど、ペットボトルのお茶を1本だけ残して、他は全部冷蔵庫に詰め込んだ。それから昨日買った新しい服に着替えて、マンションを後にした。
 とにかく、じっとしていられなかった。
 父さんは俺を守りぬいて死んだ。母さんも。だから俺は、2人のために何かしたいと思った。

尾形澄人

 午前9時――通称「麻布事件」と名づけられた今回の極秘事件の捜査会議が始まった。昨日の事件の後、真相を知っている捜査員が全員集まるのはこれが初めてだ。
 極秘扱いのこの事件は、1日180人の警察官が投入されているにもかかわらず、その事件の真相を知っているのは、ここにいるたった48人だけだ。あまりにも理不尽な捜査に、呆れるくらいだ。
 そのたった48人のために用意された200人収容の大会議室。前面の150インチのバカでかいプロジェクターに、3人の参考人の写真が映し出されていた。俺は廊下側の壁にもたれて、立ったままその写真を眺めた。当たり前だろうが、その中に深川賢治の写真は入っていない。
 前方の席に座る杉本さんの隣で、捜査一課の年ベテラン刑事、足利さんがマイクを通して説明をはじめた。
「まず、中西、小石川、真島の捜査状況です。中西は革マル派()の幹部で田町を拠点に活動しています。2ヶ月前にアジトが発見されましたが、逮捕には至っておらず――――」
 早口な説明が続く。どれも決定的な証拠はなくて、重要参考人にもできないような内容だった。ただ、最後の真島武史という男に、引っかかった。
「それから真島は皆川会のチンピラで極左とは関わりがありませんが、1ヶ月前に香港からの銃の密輸で帰国時に斉藤靖男という男と一緒に逮捕されています。この時押収された銃と今回使われた銃が同型であることがわかっています。詳しくは手元の資料の5ページににあります」
 皆川会か。相沢の言っていたことに信憑性が出てきた。資料を見ると真島と斉藤は皆川会の構成員というよりもただの使いっ走りに近いような男だ。
「皆川会から銃を手に入れている可能性があるな。マル暴に協力を要請する」
 会議室の最前列、捜査本部長の席に座った40代後半の男が会議を進める。捜査一課のベテラン刑事だった彼を、松下英二えいじを俺はよく知っている。ノンキャリアから理事官に這い上がった、いわゆる刑事の中の勝ち組だ。――家族を犠牲にしてきたんだから、そのくらいの出世してもらってないと、こっちも救われないけど。
「警護課、総理と孫の雨宮陽生の目撃証言は取れないか?」
 理事官の問いに、出入り口に一番近い席に座っている男が、悔しそうに顔を歪めて立ち上がった。今回の事件は、警護課のSPの失態だ。ここにいるのは、まさに針のむしろだろうな。
「総理は後ろから突然襲われたそうで、犯人の顔は見ていません。陽生君ですが、先ほど意識が戻りましたが事件のショックから記憶を失っているようです」
 思ったとおり、雨宮はこの事件をきっかけに記憶喪失になったってことか。あんな壮絶な状況で、正常でいろってほうが無理だろう。
 警察も、さすがに4歳の子供に両親が殺された記憶を思い出させるなんてことはできない。となると現時点で目撃者はゼロか。
「科捜研、現場の状況からプロファイリングできるか」
 松下理事官のその言葉に、捜査員が一斉に俺に注目した。白衣を着てるから、すぐにわかるんだろう。そもそも俺は心理係じゃなくて化学科だってのにな。藁にもすがりたい時の、プロファイリングってとこか。
「こういう、これといった特徴のない事件ではプロファイリングが裏目に出ることが多いから、その辺り注意して聞いてほしいんですけど」
 前置きをすると、正面にホワイトボードが用意された。
「鑑識の断定したとおり、実行犯は2人。手口から1人が雅臣を、もう1人が祥子を殺したと思われる。
 妻・祥子を殺害した犯人は、社会的弱者である女性の額と心臓を確実に撃っている。まったく躊躇していないことと、被害者が階段の踊り場に倒れていたこと、犯人の足跡が階段の上にしかなかったことから、あくまでも殺人を仕事としか考えていない人間だろう。
 それと有名ブランドの中でも売れ筋のスニーカーを履いていたことから、犯人が非常に慎重に犯行に及んでいることがわかる。几帳面で完ぺき主義、臆病で大胆なことはしない堅実な性格。こいつについてはそれ以上の痕跡がないから、そこまでしかわからない」
 捜査員からため息が聞こえた。犯人の年や性別や国籍がわかるとでも思ったんだろうな。残念ながら、俺は統計学みたいなプロファイリングには興味がないんだよ。
「雅臣殺害の実行犯については、至近距離からの発砲にもかかわらず即死させるような急所を狙っていない。ただ、30分程度で必ず死ぬ箇所に銃創があった。これは素人ということではなく、わざと即死させなかったことが考えられる。それと枕が窓の近くにあったことから、被害者は直前に抵抗したと考えられるが、逆にそれは、抵抗させる時間を与え、被害者が子供の前で追い詰められる様子を悠然と見ていたとも言える。つまり、殺人という行為を楽しんでいる。犯人は自分のターゲットが死ぬのを確実に見届けたかったはずだ。そのため犯行後でもしばらく周辺に潜んでいた可能性が高い」
 説明しながら、押さえていた憤りがまた湧き起こった。
 じわりと真綿で首を締めるような残酷なやり方だ。犯人が逃げる雅臣と幼い雨宮を濁った眼でじっと見ていたのが、手に取るようにわかった。
 杉本さんが机の上でぐっと拳を握り締めているのが見えた。俺の言ったことが事実だとしたら、警察はその犯人を見過ごしたことになる。
「しかし事件直後に非常線を張ったにもかかわらず引っかからなかったことから、外見はごく一般的で社会に溶け込める人間だと思われる。犯人は幼児期から思春期にかけて大人に虐待されたことのあるサディスト。自分の弱さを隠すために普段から人を見下す傾向にあり、銃という絶対的な武器を持つことと、その武器で人を傷つけることで優越感を得る。そのため調子に乗ってしばしば重大なケアレスミスを犯す。今回は犯行時に履いていた靴が日本で売ってない物だったということだ。つまり、あえて国外の靴を履いて犯行に及んだのではなく、単純に海外製のものを履いていた可能性が高い」
 言い終えた時には、室内はシンと静まり返って憤りのような空気が張り詰めていた。その感情をなだめるように、松下理事官の落ち着いた声が響く。
「3月の田口真奈美殺害の犯人とは、違う人間の犯行か?」
「そこまではわからない。彼女の方は絞殺で、犯行の手口が違いすぎる。比較のしようがないね」
「わかった。引き続き詳細な分析を続けてくれ。――各班長、集合」
 松下理事官がそう言うと、静まり返っていた会議室内が一気に慌しくなった。これから捜査の役割分担を決めて本格的に聞き込みが始まる。
 杉本さんも忙しくなるな。ここからは、俺ひとりか。