始まりの日

未来 - 9

雨宮陽生

 夢を、見ているみたいだった。残酷すぎる、悪夢を。
「死ぬな!」
 目の前でそう叫びながら、尾形が血まみれの男に心臓マッサージをしていた。
 それが父さんだと、すぐに分かった。
 階段に倒れていたのは、母さんだ。
 そして、そのすぐ脇で立ったまま震えているのは、4歳の俺だ。
 小さな体が、父さんの血で赤く染まっていた。

 俺の目の前で、殺されたんだ。

 脳が麻痺したみたいに、動けなかった。
 何もできない。何も考えられない。
 ただ呆然と、その光景を見つめた。

 救急車のサイレンの音が近づいて、やがて止まる。救急隊と何人もの男が部屋の中に入ってきて、俺は否応なしに部屋から追い出された。
 尾形が担架に寄り添って心臓マッサージをしながら専門用語をまくし立てて階段を下りていく。俺は、誰かに肩を抱えられながら、ふらふらとその家を出た。

 思い出した。
 頭が、目の奥がズキズキと痛む。
 あの時の記憶が、脳裏にフラッシュバックのように映し出された。

尾形澄人

 カタン、と朝刊が投げ込まれる微かな音で目が覚めた。
 知らずのうちに眠ってしまってた。徹夜二日目だ、当たり前かもしれない。目を擦って、コンタクトレンズをつけたままだったことに気が付いて、面倒くさいからからその場で外してゴミ箱に捨てる。
 そして、俺のベッドで規則正しく寝息をたてる雨宮の顔を覗き込んだ。

 雨宮雅臣は、病院で一度だけ蘇生し、そしてすぐに息をひきとった。雨宮祥子は、額と心臓を正面から撃たれて即死だった。
 病院を出て、なんとか平常心を取り戻した。
 けれども、こみ上げてくる憤りは、どうにもならなかった。

 服が血まみれだからタクシーにはことごとく乗車拒否されて、杉本さんに電話して病院の前の道端にしゃがみ込んで待っていた。雨宮が気を失って車で寝ている間に、杉本さんは鑑識に立ち会っていたみたいだ。そして夜中2時過ぎにやっと杉本さんが迎えに来た。
 総理は薬品で気を失っていただけで、今はどこかのホテルでピンピンしているという。SPもまんまと気絶させられていただけだったらしいと、杉本さんが説明した。
「おまえは少し休め。松下理事官には俺から伝えておくから」
 杉本さんはそう言って、また現場に戻って行った。
 雨宮をベッドに寝かせて、重い体を引きずるようにシャワーを浴びた。体中にこびりついた血液が、まるで雨宮の血のような気がして痛かった。

 時間が違うとはいえ、両親が目の前で殺されるのを平然と見れるわけがない。
 父をよろしくお願いしますと言った、雨宮雅臣の顔が浮かんだ。

「クソッ…………」
 わかっていたのに、何かあると知っていたのに、どうして……。
 悔しくて、仕方がない。
 また、やりきれない憤りと、言いようのない悔しさが込み上げた。

 こんな過去を、雨宮は知りたかったのだろうか。
 両親を、救いたかったんだろうか。
 まるで何事もなかったように眠る雨宮が、ひどく痛々しく思えた。
 抱きしめてやりたい衝動を押さえ込んで、伸ばしかけた手でそっと頬に触れる。微かに嫌がるように顔が動いて、手を引いた。

 小さく深呼吸して、ベッドサイドの棚に置いてある眼鏡を掛けた。そして、重い体を持ち上げて玄関に朝刊を取りに行く。昨日の事件がもう記事なっているはずだ。

杉本浩介

 午前5時、早足で捜査本部に入ると、それに気付いた日比野が近寄ってきた。
「杉本さん、現場にいた男、誰なんですか?」
 俺に並んで歩きながら小声で言う。雨宮のことはきつく口止めをしてあるが、気になることに変わりはないんだろう。けれど、今はそんな問いに答えているほど俺は広い心を持っていない。
「うるさい、仕事しろ」
「え、ちょっと! 杉本さんっ」
 低い声で押さえつけて、そのまま捜査本部の指揮官、つまり俺の上司である松下理事官に一直線に進んだ。
「どういうことですか!?」
 150人を収容する広い会議室全体に響くほど、俺は声を張り上げていた。それでも飽き足らず、松下理事官の座っているデスクに、持っていた朝刊をバンっと叩きつける。早朝にもかかわらず40人以上集まっていた捜査員が一斉にシンとなった。今回の脅迫事件のために半年前に作られたたった30人のチームが、昨日の事件で所轄署の刑事と警察官を含めて180人体制になった。ただ、この事件の真相を知っている人間はそのうちの2割程度にすぎない。
 松下理事官は苦虫を噛みつぶすような顔をして、俺ではなく、叩き付けた新聞を睨んだ。
「どうして交通事故なんですか!?」
 そう怒鳴ると、松下理事官は立ち上がった。
「来い」
 低い声でそう言って部屋を出る。そして隣にある小さな会議室に俺を連れ込んだ。会議室の一番奥、窓際まで進むと、窓の外を見たまま、ため息をつく。
「総理の判断だ」
 背を向けたまま短く言った言葉に、俺は眉を寄せた。被害者でもある総理が、どうして隠すんだ。
「警察としてもこの失態が表に出るよりは無かったことにしたほうが都合がいい。ちょうど起きた被害者の身元がわからないひき逃げを利用して発表した、それだけのことだ」
 結局、誰もが自分第一、ということか。
 事実を隠蔽して、自分の肩書きを守ることしか考えていない連中に、心底腹が立った。
「これは、テロですよ。罪もない人間が3人も殺されて、それでも隠すというんですか!」
 5ヶ月前に死んだOLの遺族にも、彼女が殺された本当の理由は知らされていない。雨宮の両親の親族も友達も、きっとこの「交通事故」という警察発表を鵜呑みにするだろう。ひき逃げで本当に死んだ身元不明の男女も、本当の名前がわからないうちに葬られる。
 そんな事が、許されていいのか。そんなふうに真実が曲げられていいのか。
「私だって、こんなことはしたくない。できることなら事実を公開して犯人に繋がる情報を得たい。それは現場を走り回っている君たちと同じ気持ちだ。だが、私にはどうにも動かせない、大きな力というのがある」
 やり場のない気持ちを抑えるような声に、俺は吐き出そうとした言葉を飲み込んだ。
 つい数年前まで俺たちと一緒に現場を駆けずり回っていた松下理事官にも、この理不尽極まりない対応に腹を立てていると思うと、これ以上責められなかった。
 通常「特別捜査本部」が立ち上がるときには理事官ではなく、その上の捜査一課長が本部長になる。けれども、今回の捜査は秘密裏に行われいているから、表立って大々的な捜査ができない。さらに最悪の事態があった時のことを考えると、できるだけ階級の低い警察官に本部長をさせたほうがいいという、上層部の魂胆が見え見えだ。
 自分の護身のために、いとも簡単に都合の悪い真実を隠し、事実を曲げる。
 吐き気がした。
 そんな事のために。
「総理は来月辞任するそうだ」
「辞任すれば済む話じゃありませんよ」
 まだ犯人の特定すらできていない。人の命をいとも簡単に奪う、子供の目の前で両親を殺すような卑劣な奴だ。
 絶対に、許してはいけない。
「捜査は続ける。我々は全力を尽くすだけだ」
 松下理事官はそう言って会話を一方的に終わらせると、会議室を後にした。
「くそっ!」
 近くにあったパイプ椅子を靴の裏で蹴り飛ばした。ガシャン、と嫌な音が響いて、長机と一緒に派手に倒れた。
 それでも怒りが収まらなかった。

雨宮陽生

 思い出した。

「陽生、明日はおじいちゃんと葉山の別荘に行くんだから早く寝るのよ」
 母さんにそう言われて、素直に自分の部屋に行く。普段は仕事ばかりの父さんが、一緒に寝てくれた。家族で過ごすのは本当に久しぶりで、嬉しくて眠れない。今日あったことを一生懸命父さんに説明する。SPが頭悪いとか犬のアルが夏バテみたいだとか、他愛もない話を父さんは飽きもせずに聞いてくれた。
「そうか、アルも一緒に行ければよかったな」
 その日アルはペットホテルに預けてしまっていた。だから、助かったんだ。もしあの家にいたら、きっと殺されていた。
 それから、俺はいつの間にか寝入っていて、物音がして起きた。暗闇で父さんが誰かと話していた。けど、それは会話になる前に途切れてしまう。
「誰かっ!」
 父さんが叫んだ。プシュッ、プシュッと空気を切るような音がして、父さんが俺を抱きあげた。急に足元が不安定になって、俺はパタパタと足をばたつかせる。父さんは、窓から入ってきた誰かに枕を投げつけて、逃げようとする。けれども、また変な音がして、父さんは正座するような姿勢で倒れこんで、俺を膝の間にきつく抱きしめた
 父さんの肩越しで男が、歪んだ笑みを浮かべてじっとこっちを見ていた。
 その男の笑みに背筋が凍りついた。
 そして、父さんを襲ったんだと気付いた。気付いていながら、男の目が怖くて動けなかった。
 2人の男が、英語で何かを話している。円とかドルとかどうのこうの。
 頭の上で、父さんが息を吸った。
「はる、き……」
 見上げた父さんの顔は、脂汗が滲んで苦しそうで、それでも安心したように笑っていた。
 けれども父さんに捕まれた腕が痛かったから、そう言おうと思った時、父さんの体から流れる生ぬるい何かに気付いた。

 赤い、血。

 血が出ると、痛い。
 もの凄くたくさん、流れていた。きっと凄く痛い、と思った。

 必死で体をねじって、父さんのお腹と足を押さえた。けれども、みるみるうちに俺のパジャマに染み込んで赤く染まっていく。
 噴出す血を、必死で押さえた。

 涙が出た。
 一向に血が止まらない悔しさと、その先の事態が見えて、涙が出た。

 血が出すぎると死ぬ。

 死ぬことは、触れなくなること。
 話せなくなるということ――――。

「―――――死ぬなーーーーーっ!!」

 その声に、ハッと、目を開けた。

 そうか、あの時見た夢の声は、尾形だったんだ……。

 カーテンの隙間から明るい光が差し込んでいた。
 よく寝たような気がするけど、体が重い。そう思って布団を見ると、尾形が俺の体の上に腕を乗せて寝ていた。そりゃ重いよな……。でも、ずっと一緒にいてくれたのかもしれない。
 家具や内装から考えると、尾形のベッドルームみたいだ。「何見ても他言しなければ」って言うほど、変なものはなさそうだけど。
 尾形を起こさないようにそっと腕をどかして体を起こした。そして、床に落ちている新聞を見つけた。そこには、俺が見たことのある見出しが書かれていた。
『雨宮首相の長男・雅臣氏「ひき逃げ」され死亡』
 そういうことだったんだ。
 事件はなかったことにされて、交通事故として処理された。俺は13年間それを聞かされた。
 不思議と、悲しくはなかった。けれど、痛いくらいに怒りが込みあげた。

 俺は、あのシーンを4歳の時に見ていたのに。
 あの場にいて、父さんの痛みを感じて泣いた。父さんを殺した男たちが許せなくて、怖かった。絶対に忘れないと誓った。あいつらの声も会話も、顔も絶対に忘れないで、いつか必ず復讐してやろうと思っていた。
 涙が出そうになって、ぎゅっと目を閉じ、唇を噛んだ。

 父さんと母さんは確かにいた。
 命をかけて、俺を守った。
 それなのに――――俺は記憶を失ったんだ。
 逃げたも同然だ。

 ふわり、とシーツを握り締めていた右手が包まれた。

「尾形……」
 いつの間にか起きていた尾形が、俺の手を握っていた。そして、優しく微笑んだ。
 俺は涙を必死でこらえて、シーツを握る両手に力を込めた。
「こういう時は、泣いてもいい」
 そう言って尾形はベッドに座り、俺の体を抱き寄せた。
 尾形の肩に額を押し付け、声を殺して泣いた。
 尾形はそれ以上何も言わなかった。
 涙があふれた。
 悔しくて、頭にきて、尾形の優しさが心が沁みて、涙が止まらなかった。