始まりの日

未来 - 8

雨宮陽生

「あんなところで何してたの?」
 すぐ背後から、少し苦しそうな声がした。
 羽交い絞めの力が少し弱まって、ゆっくりと顔だけ後ろに向けると至近距離に尾形の額があった。
「ウロウロされると、目障り……ていうか、この借りは必ず返してやる」
 尾形は口だけで笑いながら俺を睨んだ。
「そっちこそ」
 冷めた口調で言い返す。尾形は痛みを逃すように細く深呼吸した。そして直後、俺の首筋に何かが触れた。
「――え?」
 一瞬、何をされたか理解できなかった。
 ただ首筋に残った柔らかい感触と、ニヤニヤと笑みを浮かべる尾形を見て、気付いた。
 キス、だ。事故でも偶然でもなく、こいつは俺の首にキスした。
「なななな何してるんだよ!」
 思わず強引に羽交い絞めを解いて尾形を突き放し、首筋に残った違和感を消そうと手でこする。尾形はケラケラと緊張感のかけらもなく笑った。
「冗談だって」
「冗談にもほどがあるだろ! 俺はあんたとは違うんだよっ」
「でも抱きつかれて抵抗しなかったし」
「下手に抵抗しないほうがいいって過去の経験から学んだんだっ」
「そうか3回目だったみたいだな。さすが総理の孫」
「…………」
 このパターンって、じいさんが俺を振り回す時と同じだ……。動揺する俺をよそに、尾形はわざとらしく「大変だったねぇ」と同情してみせた。
「お取り込み中すみませんが」
 ふいに運転席から声がして振り向くと、30半ばくらいの男が運転していた。
「雨宮邸に戻る?」
「ああ、頼む」
 態勢を整えながら、尾形が隣で答える。もう痛みは治まったみたいだ。
 尾形のあまりの緊張感のなさに流されかけたけど、こいつら一体なんなんだ。警察関係でも、じいさんを警備するのはSPの役目で科捜研なんかがすることじゃない。
「あんたら、何?」
 ふたりを睨んでそう問うと、尾形が俺を見てニヤリと意地悪に笑った。
「極秘捜査中、って言えばいいかな」
「尾形」
 静止するように運転手が口を挟む。
「大丈夫、こいつは口が堅い。それに、知る権利がある」
 知る権利?
「…………好きにしろ」
 運転手は呆れたような、ため息交じりの返事をして、尾形が楽しそうに笑った。
「そうするよ」

 それから10分後には再び麻布にいた。
 人のよさそうな運転手は、杉本さんという警視庁の刑事だとIDを出して紹介された。俺の仮説はことごとく外れてて、本当に「極秘捜査」をしているみたいだ。
「本当は普通に声をかけようと思ってたんだけど、尾形が面白がってね。怖い思いをさせて、すまなかった」
 杉本さんは笑いながらそう謝った。それなのに尾形は謝りもせずに、まんまとひっかかった俺を笑っている。
 「もう、いいですよ。杉本さんは悪くないですし」
 かなりムカつくけど、ここで尾形を責めたところで尾形にとっては痛くも痒くもなさそうだから、何も言わないことにした。
 それよりも久しぶりに会った常識人に肩の力が抜けたような気がした。よく考えたら、目が覚めたら2008年で、頼る人間が身勝手極まりない偉そうなホモだけだった、という状況の中で、俺はよくやってたほうだよな。
 助手席に座る尾形を睨みながらそんなことを思っていると、杉本さんが小さく息をついて、真剣な顔になった。
「で、君はどうしてここにいたの?」
「……それ、俺も杉本さんたちに聞きたいです。どうしてここにいたんですか?」
「それは――」
 躊躇うように、たぶん言い訳を探していたんだと思う。それを、尾形が助手席から俺に体を向けて遮った。
「雨宮のほうこそ、何か知ってるから来たんだろ?」
 そっか、尾形は俺がどこに行くのか知ってたんだ。ってことは。
「やっぱり『何か』あるんだ。それに、極秘捜査って何?」
 極秘ってことは総理大臣をしているじいさんが何か関係しているってことなのかもしれない。
 尾形は俺の真意をさぐるように、じっと俺の目を見つめた。そして、静かに口を開く。
「記憶がないって言ってたよな。記憶喪失になった時に何があったのか、聞いてないのか?」
「聞いてるよ……でも、じいさんは嘘をついていたのかもしれない。ここに尾形がいるってことは」
 俺の言葉に、わずかに眉を寄せた。
「嘘?」
「だから確かめに来たんだよ。何が起こったのか」
 たぶん、これは尾形が言った「知る権利」だ。知ったところで、俺に何ができるかなんてわからない。ただ、俺がこの時間にタイプスリップしてきたのは、本当のことを知るためなんだと思う。
 そして、それが何なのか聞こうとした時、尾形がニヤリと意地悪く口角を上げた。
「そんなに知りたいなら教えてやる」
 尾形は偉そうに言って、他人事みたいな口調で話し始めた。
「まず半年前、2月14日に、雨宮総理宛に脅迫状が届いた。1ヶ月以内に防衛大臣を辞任させろ、言う通りにしないと民間人を殺すってね」
「殺すって……」
 頭の片隅にあったキーワードをいきなり言われて、動揺した。
「次の月のホワイトデーに、全く関係ない一般女性が殺された。遺体の横に、防衛大臣の雑誌の切り抜きがナイフで突き刺さされていた」
 関係ない人が殺された……防衛大臣を辞任させるためだけに。その理不尽さに息苦しさを覚えた。そんな事件に、俺の両親とじいさんが関わっているんだ。
「脅迫状の件は極秘扱いだったから、犯人しか知りえない。総理はすぐに防衛大臣を辞任させた。表向きは事務所費の不正計上の引責辞任ということになってるけど、本当の理由はその脅迫と殺人だ。ただ、この事件は公表されなかった。犯人から直接雨宮総理の携帯に、別の脅迫の電話がかかってきたからだ。こっちが本当の狙 いだと思うけどね」
「なんて?」
「東京拘置所に服役中の受刑者7人を釈放しろ、というものだ。指定した受刑者は全員テロリストと言ってもいいくらいの極左暴力集団()の人間だ。実際過去に殺人を犯した受刑者も含んでいる。彼らを解放しないと、総理や総理の身内に危害を加えると、そう脅迫してきたんだ」
「身内……」
 つまり、両親と俺だ。
 嫌な予感がした。この塀の中で、酷く恐ろしいことが起きるような気がした。
 けれども、尾形は淡々とその先を続ける。
「現に犯人は関係のない女を殺してるし、それを棚に上げて脅迫してきた。嘘だとは思えないけど、いくら総理でもそんな危険な人間を釈放するわけにはいかないから、要求には従っていない。それで、総理が休養中にもかかわらず俺たちやSPが警護しているってわけだ」
 これで、繋がった。
 SPに警護されてるのに、ひき逃げなんてされるわけない。たとえ事故にあっても、すぐに犯人が捕まるはずだ。
 だとしたら、事故じゃなくて殺人だ。父さんと母さんは殺されたんだ。じゃなきゃ、こんなにタイミングよく死ぬわけがない。
「今朝おまえを拾った時も張り込み中だった。今のところ『雨宮雅臣の教え子』ってことにしてあるけど、俺たちが来なかったら、今頃おまえはSPに捕まってたところだ。感謝しろよ」
 そんなこと、どうでもいい。
「そのSPって、どこにいるの?」
 その問いに、尾形の顔が険しくなった。
「裏口に2人、庭に4人いる。あとはセキュリティシステムで監視してる」
 SPが6人もいるのに、そう簡単に人が殺せるか?
 まだ間に合うかもしれない。
 でも、もし過去を変えたら、どうなるんだろう?

「雨宮、おまえは何を知ってる?」
 一瞬、不自然すぎる事態に考えが追いつかなかった。ぐるぐると頭の中で「時間」が回った。
 今ここで尾形にそれを話したら、両親が殺されないし、じいさんは総理を辞めずにすむ。いいことばかりだ。
 そして、俺の過去も変わる。どう変わるんだろう?
 俺の記憶や、人生はどう変わるんだろう。  わからない。どうなるのかわからなくて、どうしようもなく、怖い。
 それは――――父さんと母さんが生きていることが、怖い……?

「雨宮、教えてくれ」
 尾形が、初めて見せる真っ直ぐな目で俺を射抜いた。

 俺の人生? それとも、父さんと母さんの命?

「父さんと、母さんは……」

 どうなるんだろう。
 俺が何もしなかったら――――。

 一生、後悔するような気がした。

「2008年8月13日に、死んだんだ」

 そう言い終わると同時に、尾形は車から飛び出した。

尾形澄人

 死んだ? いや、これから死ぬのか?
 ひどく嫌な予感がした。考えていたことが悪い形で的中しそうな、予感。
 インターホンを立て続けに叩いた。中から全く応答がない。寝るには早すぎる時間だ。
「尾形、中のSPが携帯に出ない!」
 追ってきた杉本さんの言葉を聞いて、門のすぐ横の木製のくぐり戸を引く。もちろん開くわけはなく、数歩下がって体当たりをした。ドカッと鈍い音がして、塀の内側に戸が倒れ、手入れの行き届いた日本庭園が見えた。
「クソッ」
 この庭にも、その先のでかい家にも、明かりが灯っていない。ブレーカーが落ちてるみたいだ。セキュリティシステムなんてとっくに解除されてるんだろう。
「杉本さん、外の人間に連絡とって!」
「今してる!」
 庭園の中央を横切るように伸びた長い石畳を走って、玄関を目指した。庭にいるはずのSPが見当たらない。
 最悪の事態が頭を掠めた。
 玄関の引き戸は鍵がかかっていた。その玄関の左にある縁側の窓を、近くにあった木製の椅子で叩き割ると、ガラスの割れる音が派手に響いた。割れ目から手を突っ込んで鍵を開け、靴を履いたまま上がりこむ。
「気をつけろよ。裏口のSPも応答がない」
 後ろから杉本さんの緊張した声がした。
 SPは全滅か。
 銃を持ち歩いているのはSPだけだ。つまり犯人は、俺との電話を切った直後に武器を持ったSPだけを封じ込めたんだろう。それも6人も。明らかに、プロの犯行だ。
 もう遅いかもしれない。
 雨宮がああいっている以上、もう俺にはどうにもできないことが起きているんだろうと、頭の片隅で考えた。けれども、だからといって見過ごすわけにはいかない。あいつが何と言おうと、未来を曲げられなかったとしても、それは俺が手を抜く理由にはならない。
 人が、人を殺していいわけがない。
 あれからたった15分だ。まだ、犯人がいるかもしれない。
 シンと静まり返った、暗い家屋。何度か来たから間取りは頭に入っている。この客間を抜けると応接間。玄関を挟んで東側に居間と台所、離れに続く。そして離れの2階に子供と息子夫婦の部屋と、総理の書斎がある。
 1階に人の気配はない。静かに玄関を素通りして離れの階段に移動した。
「待て尾形。足利さんと日比野が来るまで待とう」
 こういう場所は、杉本さんのほうが経験が上だ。
「わかった」
 答えながら、階段の上の方にぼんやりと何かが見えた。家具とも置物ともとれない妙な位置が気になる。
 胸ポケットからペンライトを取り出して、そっと、下の段から徐々に階段を照らした。
「杉本さん……」
 黒い液体。ペンライトの光に反射して赤く光った。
 血、だ。
 階段を伝って、ぽたぽたと滴っている。折り返しの踊り場に、髪の毛が照らし出された。長い黒髪。
 気が付いたら駆け上がっていた。暗闇に、仰向けの雨宮祥子が目を見開いて倒れていた。額の中央と、心臓の位置に、大きな赤い染みが広がっている。頚脈はもう触れなかった。階段を上っている途中に、突然撃たれたんだろう。
 怒りが込み上げた。
 どうして、こんな罪もない人間が殺されなければならないのか。
 階段の上を睨みつけて、一気に駆け上がった。一番手前が雨宮陽生の部屋だ。ドアは半開きになっている。壁に体を貼り付けて、そっとそのドアを押した。物音ひとつしない部屋を、壁から顔だけ出してそっと覗く。
 正面の大きな窓から東京タワーの光が目に入った。

 そして、愕然とした。

 こんなことが、あっていいのか。

 フローリングに広がった液体が、月明かりに反射していた。
 それが中央でしゃがみ込んだ男の血液だと、すぐに分かった。話したことがある男だ。
 小さな子どもを抱きかかえて動かない。
 ただ、俺を見て、安心したように笑った。
「陽生を、たのむ」
 口だけが、そう動いた。

「――――死ぬなーーーーーっ!!」

 無我夢中で、叫んでいた。
 とっさに駆け寄り、子供を引き離して雨宮雅臣を床に仰向けに寝かせた。呼吸も脈も触れない。
「死ぬなっ、あんた父親だろう!」
 必死で心臓マッサージをした。
 血の量が半端じゃない。もうとっくに死んでてもおかしくない出血量だ。Tシャツは赤黒く染まって元の色すらわからない。
 俺が見た笑みすら気のせいだったのかもしれないと、どこかで冷静に思う。けれども何もせずにはいられなかった。
「死ぬな、死ぬなよっ」
 心臓マッサージと人工呼吸をしながら出血箇所を探す。左足の付け根と、わき腹、たぶん、背中にも傷がある。
「誰か! 救急車!!」
 ありったけの声で叫ぶ。
「もう呼んだ! 俺はどうすればいい!?」
 杉本さんの声がしたほうを振り向くと、視界に赤い眼が飛び込んできた。

 一瞬、その眼に体が動かなくなった。
 もういない犯人を睨むように見開いた目から、大粒の涙が溢れ出る。
 4歳の子供のものとは思えない、激情。
 哀しみなんかじゃない。
 憎しみに満ちた、赤い眼だ。

「尾形!?」
 杉本さんの声にハッとした。雨宮雅臣を挟んで向かい側にしゃがみ込んでいた。
「心マしてっ」
 杉本さんにマッサージをまかせて、近場にあった玩具とタオルを使って足の止血をし、わき腹を手で強く圧迫する。処置をしながら、その残酷さにやりきれなくなった。

 この子は、雨宮は分かっていたんだ。
 たった4歳でも父親が何をされたのか、どうして動かないのか、どういう状況なのか何もかも理解し過ぎている。
 どんなに知能が高くても、心はまだ4歳の子供。親という存在を信じて疑わない、ただの子供なのに。
 あまりにも残酷な仕打ちだ。

 4歳の記憶がない。
 そうすることでしか、雨宮は自分を守れなかったんだろう。

「総理保護しました! 外傷はありません!」
 階段のほうから誰かの声がするのと同時に、遠くから救急車のサイレンの音が聞こえてきた。
 出来る限りの止血処置はした。まだ可能性はある。

 頼む、生き返ってくれ。たのむから――――!