始まりの日

未来 - 7

尾形澄人

 行きたいところ、ね。
 その場所は検討がついた。ただ夕飯を食いにいくだけで、あんな目をするわけがない。凛とした、まっすぐな瞳だった。
 あいつの父親を思い出した。

 ジーンズのポケットから携帯を取り出して、杉本さんにかけた。
『勝手にあの子つれて消えるな! しかも携帯の電源切るな!』
 呼び出し音が止むなり、杉本さんの怒鳴り声がした。まぁ、だいたい想像していたから耳から離してたけど。
「悪かったな。一応、非番だから」
『そういう問題じゃないだろ。庁舎内を探し回った俺の身にもなれ』
「あぁ、ごめんごめん。ちょっと我を忘れた」
 本当にあの時点で雨宮を連れ出すことになるとは思ってなかった。話だけして、杉本さんに押し付けようと思ってたけど、あまりにも面白かったから雨宮の行動に付き合ってしまった。だから、白衣とか全部持ち帰って来ちゃったし。
『まさか、あの子に手を出したんじゃないだろうな』
「俺がそんなに節操ないように見えるか?」
『ああ見えるね。この半年間に何人の男を騙した。警察の威信が損なわれるな』
 へぇ、杉本さんにはそんなふうに見えてるのか。ちょっと心外だな。
「騙したんじゃない、気が変わっただけだ」
 いちいち説明するのも面倒だから別れた経緯を一言で言うと、杉本さんは呆れたように。
『よく言うよ……で、何か用なんだろう』
「ああ、ちょっと気になることがあるんだけど、今から来れる?」
『気になること?』
「そう、例の雨宮陽生について」
『おまえなぁ、都合のいい時だけ俺を呼び出して、どうせまた放置する気だろう』
「それは悪かったって言ってるだろ。根に持つタイプは嫌いだ」
 杉本さんが俺の頼みを断れないのを知ってる。案の定、数秒後に小さなため息が聞こえた。
『……わかった、1時間くらいで行ける』
「了解、着いたら電話して。そのまま出掛ける。よろしく」
 携帯をローテーブルに置いて、ソファーに身を投げた。背もたれに頭を乗せて、天井を見上げる。

 雨宮がタイムスリップしてきたということが事実なら、あいつが言うことは、俺たちが今追っている事件に関係あるような気がしてならない。
 総理が3年で辞任? まるで、今回の事件がきっかけのようなタイミングだ。その上、4歳以前の記憶がない、ということも。雨宮家に、一体何があったというんだろう。
 嫌な、予感がした。

杉本浩介

 麻布の雨宮邸につくと、なぜか尾形が拾った高校生がその立派な門の前を歩いていた。立ち止まることなく、ゆっくりと歩いて周囲を見回して何かを確かめているみたいだ。
「なんでここに、あの子がいるんだ?」
 仮にも血まみれでこの付近に倒れていた人間だ。さすがに黙って見過ごすわけにはいかない。けれども、尾形は何も答えずに彼の様子を見つめていた。
 十字路の角にある、一辺が50メートル以上の歴史を感じる和風の豪邸。彼とすれ違って、そのまま雨宮邸の塀に沿って、角を曲がり、車を停めた。
 尾形は小さくため息をついて、どこかに携帯をかける。
「尾形だけど。――そう、今日も確かめたいことがあって。それと、雨宮邸の前にいる高校生、放置してくれる?――あぁ、雨宮雅臣の教え子なんだ。よろしく」
 数年前まで小学校の教師をしていたこの家の長男の名前を使って、短く用件だけ伝える。そしてもう一度どこかに同じ用件を伝えた。おそらく雨宮総理の警護をしている刑事とSPに連絡を取ったのだろう。一課の刑事はともかく、SPは納得しないだろうに、言うだけ言ってあっさりと電話を終えた。
 何を考えてるんだ、こいつ。彼がここに来たことを知って尾形が俺を呼んだのだろうが、あの高校生には何もできないとわかっているのも確かだ。
 そんな俺の疑問をようやく察したのか、いや、確実に放置してただけだと思うが、尾形は俺を見てニヤリと笑った。
「タイムスリップって、信じる?」
「タイムスリップ?」
 可能性にもなりえなかったその言葉が、しかも尾形から発せられて、耳を疑った。
「そう。そういうのって、あるんだなーと思って」
 言いながら手を頭の後ろに組んでシートに深くもたれた。
 尾形は、あの高校生が本当にタイムスリップしてきたと思っているのだろうか。
「あいつさ、正真正銘、本物の雨宮陽生17歳だ。2021年にいて、突然2008年にやってきた」
 俺の目を見て、はっきりとそう言った。
「本気で言ってるのか?」
「あたりまえだろ、こんな寒い冗談言えるか」
 確かに、こんな冗談を言っても面白くもなければ何の得にもならない。ただ、俺には信じるだけの材料がないのも確かだ。けれども、スーツのポケットから4つ折のA4用紙を出して差し出した。
「これ、証拠」
 受け取って広げると、FAXで受信したような画質のプリントだった。タイトルは「DNA鑑定書(簡易)」。
「職権乱用し……」
 言いかけて、次の言葉が出なかった。『一致』という二文字が目に入ったからだ。鑑定対象の名前は「雨宮陽生」と「毛髪A」。毛髪Aが何を指すのか、言われなくてもこの状況から考えればわかる。
 この二つが一致、つまり同一人物ってことになる。
「……嘘だろ?」
 信じられない。というか、信じていいのか?
「実は今朝こっそり依頼してて、さっき連絡があった。俺もこれを見るまではさすがに信じられなかったけどな」
 尾形は俺の手元から報告書を取り上げて、ポケットにしまった。それから正面を向いて腕を組むと、まだ信じきれていない俺をよそに話を進めた。
「でも、今日一日あいつと話してみてわかった。雨宮総理が3年で辞任した、4歳以前の記憶がない――そう言っている」
 その一言に、尾形の言おうとしていることが、見えてきた。
 現在総理になって3年目の雨宮氏、4歳の孫。その数字がぴったり「今」を示していることに、気付かないわけがない。
「あいつは本当に雨宮陽生で、これから何が起こるか知ってる。だから、ここに来たんだよ」
「何が起こるか……?」
 俺の問いに、尾形がめずらしく真剣に頷いた。
「 これは俺の推測に過ぎないけど、仮に4歳の雨宮陽生がこれから記憶を失うとする。その原因は何か? 外因、内因どちらにしても、彼に何かが起こったことは確かだ。そして、同じ年に雨宮総理が辞任する。その上に『今回の事件』だ。全てが繋がっているとしたら?」
 一瞬、言葉を失った。
 事件のことは警察内部でも極秘扱いだ。それを高校生が知っているわけもない。こんな偶然が、あるだろうか? 尾形の言うことが酷く現実味を帯びてきた。
 何よりも、すでに今回の事件で、関係のない人間が死んでいる。
「つまり……雨宮総理に、危害が加えられる?」
 そう聞くと、
「さぁ、そこまではわからない。雨宮の口調からすると、2021年でも雨宮誠一郎は生きてるようだからね。でも、雨宮がここに来たということは、何かが起こる可能性が高い」
 もし本当にタイムスリップだとしたら、と付け足す。
「ちなみに、他の可能性はないのか?」
「あるよ。無限にある。ただ過去の自分に会いに来たとか、興味があるだけとか、もっと他の失敗を知らせに来たとか、いろいろある。でもさ、あいつの目が、なんつーか、もっと凄い覚悟をしているような気がするんだよ」
 覚悟、か……。
 今までも何度か尾形の言った突拍子もないことが、現実になったことがある。さすがにここまで現実離れしてなかったが。
「わかった、いいだろう。確かめよう。ただし、あの子をこのまま門の前に待たせておくには都合が悪すぎる」
 そう言うと、尾形はどこか嬉しそうに笑った。

雨宮陽生

 麻布の家に着いたときには、完全に日が落ちていた。金持ちの家と料亭と大使館しかないこの辺りは、夜になると人通りがほとんどない。たまに車が通るくらいだ。
 家の周囲は俺の背よりも少し高い塀で囲われていて、まだ中に両親がいるかは、全くわからない。
 中2の時に一度この家に入ったことがある。都会のど真ん中によくこんな敷地があるものだと感心するほど広かった。純和風の庭に、屋敷。その時は管理人が1人でここを管理してて、その次の年にじいさんはこの家を売りに出していた。結局いくらで売れたんだろう。じいさんはこの家に愛着はないのかな。

 ひとまず門から少し離れて、向かいの家の塀に背を持たれて待つことにした。立派な門の右側に車庫のシャッターがある。車で出掛けるとしたら、たぶんここから出てくる。
 両親が死んでから3年経って、月本が俺に2008年8月14日の新聞を見せた。切り抜きじゃない、一部まるごとの新聞の1面に書かれた活字。『雨宮首相の長男・雅臣氏「ひき逃げ」され死亡』という見出しだった。あの記事が本当なら、数時間以内にこの家から出発するはずだ。

 けれど、ひき逃げは嘘なのかもしれない、と同時に思う。
 何かの事件に巻き込まれて、殺された。だからじいさんは俺に昔のことは話したがらないし、俺は記憶を失った。そう考えるとすんなり辻褄があう。
 だいたい科捜研が関わってる時点で、すでにじいさんの警護の範疇を越えてる。科捜研が出てくるのは事件が起きてからだ。つまり、もう何か事件が起こっている。
 俺の知らないところで、もう何かが起きている。

 ただ、それを知ったところで――俺はどうすればいい?
 両親が死ぬのを阻止する?
 それとも失くした記憶を知るだけのために、ここにいるのか?
 結局まだその答えが出ないまま、俺はここにいる。もうすぐ両親が死ぬのに。

 静かな門を見つめながらそんなことを考えていると、先の十字路の角から車のライトに照らされた。面倒だけど、顔を見られないように車に背を向けてゆっくりと歩く。こんな道に突っ立ってる男なんて誰が見ても不審すぎる。
 そしてその車が、俺を追い抜こうとした、その時。
「えっ?」
 急に腕を強く引っ張られた。バランスを崩してそのまま背中からドサッと車の中に倒れ込む。直後に背後から羽交い絞めにされた。
 ええ!? これって誘拐? なんで俺が?!
 直後に車が急発進してドアが閉まる。
 っつーか、自慢じゃないけど、
「誘拐は3回目だっつーんだよっ!」
 グイッと右腕を引っ張って、俺の背後にいる奴に思いっきり肘鉄を食らわせた。
「うっ……」
 どこに当たったかわからないけど、敵が呻いた。それでも俺を羽交い絞めにする腕はほとんど弱まらない。そうしている間にも、車はどんどん進んで、そのまま大通りに出た。
 このまま遠くに連れて行かれたらヤバイな。でもその前に、危害を加えられないように、ここは従ったほうがいい。
 にしても、なんで俺が拉致られなきゃなんねーんだよ。
 俺は2008年の雨宮家との接点なんて全然ないし、ましてや俺の存在を知ってるのは尾形だけで――……。
 そう考えかけて、気づいた。

 尾形?
 尾形が俺の両親に何か危害を加えようとして、それなのに俺がこの家の前にいたから、邪魔になって拉致したとか……?

 血の気が引いた。
 誘拐されてこんなに動揺したのは、初めてだ。
 すぐに振り向いて顔を確かめたい、そう思う一方で嫌な予感が当たりそうで、怖くて動けない。

「おい、大丈夫か?」
 運転席から落ち着いた声は、知らない男。
「……平気、鳩尾ははずれた」
 それに答える声に、思わず目を閉じた。
「大人しくしないと襲うぞ」
 尾形、だ。
 信じてたのに。
 どこからどこまでが嘘なんだろう。
 俺を拾ったことも、車の中での会話も、買い物も。
 全部、信じていたのに。